02.回顧倶楽部。

2010年11月28日 (日)

【復刻記事】可愛いリズム。

成功したいと思うならば、まず自分自身がその成功に値する人にならなければいけない、とある本に書いてある。

その本は書店のいわゆるビジネス書の売場に陳列されていたが、人生において成功とは、必ずしもビジネスだけに限ったことではない。

あれはカート・コバーンがショットガンを口に咥えて銃爪を引く一年前のことだった。

私にとって夢はもう終わったが、それでもまだ生きていくことを決めた。それ以外に方法が思いつかなかったが、それすらも他人の所為にしようとしていた。理由もなく生きるに足るだけの強さを、当時の私は持ち合わせていなかった。そして、それはやはり素敵な女性のかたちをしていた。

クリスマス前に彼女が私に好意を抱いているという情報は、共通の知人から入手していた。だから、それで間に合わせようとしたのだ。まったくもって臆病かつ狡いことこの上ない。

彼女は海の近くに住んでいて、私が仕事を辞め、近況を一切明かさなかったにも関わらず、後楽園遊園地のルナパークまでわざわざ出て来てくれたし、12月には新宿アルタの上のシスコに、約束の時刻に遅れずに来てくれた。あれは憐れみだったのか。軽蔑されていたのか。

彼女が喜んでくれるように、ボン・ジョヴィの新作の試聴用カセットをいち早く手に入れた。音楽の趣味は一切噛み合わず、そんな話は全くしていなかった。それでも彼女との時間はあっという間だ。一体何を話していたのだろう。

しばらくして、電話をしても弟が出て、彼女は留守だと伝えられた。それが二度続き、向うから連絡も無かった。もう会いたくない理由でも出来たのだろう。何度問われても、当時私が何をしているかは答えなかった。こんな人間が信用できるはずもない。

午前中には学校の授業に出て、午後から寝て、夜から朝にかけてはアパートの近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。夜十時から朝九時までの11時間をたった一人で、月曜から金曜までの週5日間働いていた。家賃を払ったり服を買ったり、欲しい本やCDを買うにはじゅうぶんなカネが稼げた。

土曜日の夜は電車とバスで六本木へ行き、六本木WAVEと青山ブックセンターで買物をし、週末に読んだり聴いたりして楽しんだ。新聞や世間の流行にまつわる雑誌も読むようにし、一方でダンベルで体を鍛えたりもしはじめた。

それまで書き溜めていたノートや原稿用紙などはすべて捨てた。とにかく生まれ変り、何もかも初めからやり直すつもりだった。改めて生きることを決めるには、それぐらいのことが必要だったのだ。

次の春に学校を卒業したら会社に就職し、仕事でトップを取って、彼女と結婚し、そして幸せな家庭を築く。そんなことを生きる目的にしようとした。それは彼女のことを愛していたからというよりは、完全に自分勝手な幻想に他ならなかった。

アルバイト先のコンビニエンスストアの客で、何となく気になる女の子がいることに気がついた。おそらく20歳ぐらいだろうか。地方出身でこの近くで一人暮らしをしていると思われる。雑誌コーナーで立ち読みをしているのだが、客の波が引き、一人だけになったタイミングを見計らって、清涼飲料水やヨーグルトなどを買って帰るのだ。特に会話などは交わさないが、そんなことが何度も続き、彼女が来ないと何やら気分がモヤモヤするぐらいにまでなっていた。

彼女が「ロッキングオンJAPAN」を持っていることなどがあり、音楽が好きなのだということが分かった。そして、ある日、私に男性化粧品の試供品をくれた。もらったが周囲に使う人がいないので、良かったら使ってほしいとのことだった。これはお礼をしなければいけない。物をもらったらお返しをするものだ。

深夜に妄想は盛り上がり、夜勤が終わって家に帰ったら彼女を食事に誘おうと思った。電話番号はすでに入手していたのだ。これはもしかするとひじょうに問題のある行動なのだが、その時は一切迷いが無かった。若さって素晴らしいね。そして、断られた。これはもしかするととんでもなくマズいことをしてしまったのではないかという気がしたのだが、その日も勤務だったので、時間通りに店に行った。彼女が普通の客と同じように入って来て、また一人だけになってから何か商品を持ってレジの方にやって来た。どのような態度をとるべきか迷っていると、彼女の方から「せっかくなので行きましょう」と笑顔で言ってきた。

その年のクリスマスは彼女と過ごし、翌年の春に学校を卒業し、就職をして関係が上手くいかなくなるまで続いた。その後、マニック・ストリート・プリーチャーズを追いかけて名古屋にいるという手紙をもらったのが最後だった気もするし、そうではなかったような気もする。

私はいわゆるイケメンなどでは当時にしてもありえないし、それ以外にも一般的に女性がハタから見ていいなと思う要素などは皆無に等しい。稀にコアなファンがいたりしたとしてもだ。彼女はコンビニエンスストアでやる気なさげに働く私のどこに注目したのかは定かではないのだが、問い質したところ、乾電池を間違えて買ってしまい、再来店した時に、開封済みであったにもかかわらずすぐに交換してくれて、優しいなと思い、それがきっかけだったということである。よく分からん。

その年は他にも同じ講義を受けていた女性からずっと好意を寄せていたという告白を聞かされたり、明らかに何かがどうかしていたのだ。まあ、普通にモテる男性というのはこういうことが日常茶飯なのだが、私にとってはそういうことはじつにレアな事件であったため、明らかに何か異常な事態が起こっていたに違いない。

まあ、モテ期なる単語もあったりはするわけだが、おそらく私は当時、先に述べた彼女に値する自分になるために様々な努力をしており、それは明らかに私に何らかの変化をもたらし、それが伝わる人には伝わっていたということなのだろう。

掘り下げ未満。

そして、休憩時間に食べるものを買いにミニストップへ向った。途中、iPhoneの画面をスクロールして読んでいたその瞬間、またしてもチャネリングにより、もっと掘り下げて書いてよというメッセージを受け取った。

ご期待には添いたいところではあるのだが、実のところ私は語るに足るようなエピソードをそれほど持ち合わせてはいない。年を取ってから過ぎ去った日々を懐かしみ、楽しかった青春時代のことを面白おかしく回想するのは大人になったからこその楽しみの一つではあるのだが、私にとってその頃の日々というのはそれほど楽しかった訳でもなければ、充実していた訳でもなかった。現在の方がずっと満ちていると思える。

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しかし、また何か思い出すこともあると思うので、そうしたら書いてみたいと思う。

それはそうとして、コストパフォーマンスが最も高かったのはやはり350円のサービスランチであろう。スパゲティーコンビにコロッケが付いたものがスパゲティーメイトだっただろうか。また、蓮舫は当時すでにテレビ朝日の夜の番組にレギュラー出演していたが、講義にはわりとちゃんと出ていたという。

2010年11月27日 (土)

チャネリングの世界。

高円寺での手伝いが終わり、午前四時台の商店街をiPhoneの画面を読みながら歩いていた。その時、チャネリングで大学時代のことをブログに書いてよというメッセージを受け取った。それは、数年前によく分からない外国人がふかわりょうに対して「一言ネタやってよー」と懇願したのと同様の力強いもののように感じられた(「消しゴムの角使ったぐらいで怒るなよ」「wwwwwww消しゴムの角ってwww」)。それで書くことにした。

その前に高円寺での手伝いにおいてはやはり大笑いした。特に我が家の飼い猫に似ていることで知られる(賛同者皆無)可愛いS君が、私の最近のお気に入りギャグである「やさしいお母さ~ん♪」に極度が理解を示してくださり、何度も繰り返し使っていた。午前四時過ぎに中締めの合図があった。「中締めで~す」というその号令は、あたかも「妄想セクシーワード」前の「エンディングで~す」のようでもあった。

私は近くにあった中島美嘉のCDを手に取り、「ん?ナカシメ...?これはナカシマ」と一世一代の大爆笑ギャグを放ち、場内は歓喜に包まれた。彼らは笑っていたが、瞳の奥には氷があった(「ツァルトゥストラかく語りき」より)。直後、別のCDを手に取ったのだが、たまたまそれがスーザン・ボイルのものだったため、「そしてこれはスーザン・ボイル」と言ったところ、どこからともなく「それは関係ないですやん」というきわめて的確なツッコミが返ってきた。いやー仲間って素晴らしいね。そんなことを実感できたので、ひじょうに価値がある時間だったといえる。

さて、高校時代は志望校にことごとく不合格になりまくり、卒業後は東京の予備校に通うことにした。都営三田線千石駅から徒歩5分の場所にあった大橋荘という風呂なし4畳半家賃2万6千円のアパートに住み、水道橋の今は無き研数学館という予備校に通っていた。当初はたまたま隣の席になった千葉県松戸市から通っていた男子ぐらいしか友達がいなかったため、ちゃんと真面目に勉強していた。とにかく時間はたっぷりあった。そしたら見る見るうちに学力が付き、夏前の模擬試験では現役時代に不合格になった大学たちなど楽々クリアできるレベルになっていた。それで志望校のランクを上げようとしたのだが、どのようなコンセプトで選ぶべきかと考えた。

ちょうど本屋に田中康夫と泉麻人の共著による大学を学力や就職率ではなく、モテ度によって格付けした本が出ていて、それを大いに参考にした。この本で評価が高かったことと、サザンオールスターズなどでオッシャレーなイメージがあったため、そこを第一志望校に選んだ。ここよりも偏差値が高い大学も受けはしたのだが、一番行きたかったのはここだったのだ。そして、結果的に入学試験に合格してここに通うことになった。

もちろん渋谷から近い表参道という最高のロケーション、近くには「なんとなく、クリスタル」にも出てくる伝説の輸入レコード店、パイド・パイパー・ハウスや嶋田洋書などもあるということで、ひじょうに胸躍ったわけだが、教養課程は厚木キャンパスという場所にあった。ここは小田急線で新宿から1時間ぐらいかかる本厚木駅からさらに神奈中バスに揺られて30分ほど行った場所にあり、ひじょうに遠かった。

住所が厚木市森の里というだけあって、その名の通り大自然に囲まれている。バス停とは逆側から下っていくとスーパー三和があったのだが、それ以外は周囲に店など一切ない、世間から隔離されたような環境であった。一度真冬に友人の運転する車で帰宅しようと三和の前を通ると、おぼんこぼんが皮ジャンを着て寒そうにしながら5、6人の客に向けて漫才をやっていた。

私は小田急線の小田急相模原駅を最寄り駅とする場所のいわゆるワンルームマンションに住むことにした。他にも地方から上京した学生たちは厚木とか町田とかの小田急線沿線に住んでいた。小田急相模原のことは一般的に「おださが」と呼ばれていた。

ワンルームマンションの隣の部屋には同じ大学に通う学生が住んでいた。彼は比較的美少年の部類に入るルックスをしていたが、部屋に坂本竜馬の大きなパネルを飾り、ステレオで尾崎豊の「Scrumblin’ Rock'n Roll」をかけながら一緒に歌うようなタイプであった。福岡県の出身で、マルタイの棒ラーメンと陣太鼓というお菓子をくれた。大学では当時無数にあったテニス系サークルの一つに入り、日焼けし、服装もどんどんオッシャレーになっていった。そして、学内で出会っても挨拶を交わす程度の関係になっていった。

入学式が青山キャンパスであり、それから数日後に厚木キャンパスでオリエンテーションがあった。当時も私は洋楽だとか日本のアイドルの曲とかを分け隔てなく聴いていたのだが、その日は帰りに小田急相模原にあったオウム堂(後にお~む堂と改名)というレコード屋さんである女性アイドルの最新アルバムを買った。帰宅して針を落とし、一曲目を聴いたところでまだ「夕やけニャンニャン」をやっていることに気づき、一旦レコードから針を上げて、テレビをつけた。報道センターから逸見正孝アナウンサーが、つい先ほど私がレコードを買った、その女性アイドルがもうこの世にはいないことを告げた。それからしばらくの間、アイドルを無邪気に応援することができなくなってしまった。なぜならおそらく彼女はアイドルにさえなっていなければ、こんなに早くに命を落とすこともなかっただろうと思えたからだ。

一年次は学級単位での講義も結構あった。高等部から上がって来た女子学生が1割程度いたのだが、やはり高価そうな洋服や装身具をまとい、育ちのよさを感じさせる場合も少なくなかった。しかし、一部の美男美女をのぞき、外部から入学した学生とは一線を引いているような雰囲気もあり、学級単位で企画された食事会の類いにも一人として参加することはなかった。本厚木駅の近くには万年山という居酒屋チェーンが数店舗出店していて、そこを利用することが多かった。また、少し離れた場所にマッカーサーガレージというオッシャレーな感じのカフェバー風の場所があり、ピンクのキャデラックに乗りながら公衆電話がかけられたりした。ここは二次会で何度か利用した。

三年に進級すると晴れて青山キャンパスで学ぶことができるわけだが、このタイミング、もしくはその少し前ぐらいに都内に引っ越しをする学生が多かった。三軒茶屋などの田園都市線や裕福な学生などは東急東横線に住む場合が多かったように記憶している。私は京王線の各駅停車駅近くの家賃を支払うのがやっとであった。

当時は大学生が六本木のスクエアビルにあるディスコなどを借り切ってパーティーを開催したりすることが多かった。それ系のサークルに所属している学生からパーティー券の購入を要請されることも少なくなかったが、私はそうせ行っても楽しめないことが分かっていたし、そんなにおカネに余裕があるわけでもなかったので、この手のパーティーなるものに参加したことは一切なかった。スチャダラパーが「NICE GUY」の「ユーロビート/朝までヒート/ヒューヒュー言っててやかましい」「お揃いジャンパー/揃ってバカ/俺かまわんが一体なんだ」「いつもコンパ/集まるトンマ/引っかかる女もまたいるもんだ」といったリリックに共感すると同時にルサンチマンを蓄積し、暗いUKニュー・ウェーヴを聴いているような、そのような立ち位置であった。

それでも現在でいうところのリア充のみなさんにも意外と親しくしてくれる人たちもいたため、内々のパーティーの類いに招待されて参加することも少なくはなかった。そのような場では、金持ちでルックスも良い男子同士が、自分の家が金持ちでルックスも良くてそこそこモテることについて罪悪感を覚えることがあるかなどという議題について、何の悪意も皮肉もなく語り合っていたりして、なるほどこのような世界もあるのかと感心したものである。

また、親だか親戚だかが下北沢のある店のオーナーだということで合鍵を持っていて、深夜に営業終了後のその店に入り、酒や料理つくり放題、カラオケも歌い放題などということを当たり前のようにやっていて、これについても、なるほど日本にも階級というものはちゃんと存在しているのだよな、などと思ったものである。

一方、私は喫茶店やホテルでアルバイトをして稼いだお金でCDやレコードを買ったり、近所の女子高生と遊園地に遊びに行ったり部屋で一緒に料理を作ったり、そのようなことを地味にやっていた。

作品を書いて応募したりもしていたのだが、結局ものにはならず、いずれ自分に才能が無いことにも気がついた。その頃には同じ年に入学した学生たちは就職活動なるものをしていたのだが、あまり勉強をちゃんとしていたと思えない学生までもが何社もの内定を決め、かつ企業から映画や食事や旅行に招待されたりしていた。それだけよくしてもらった会社をどうやって断ろうかなどと真剣に悩んでいる話をよく聞かされた。今の就職状況とは大きな違いである。

そのうち私は六本木WAVEというCDショップで契約社員として働くことになり、授業が終わってから徒歩で西麻布などを通って通っていた。当時は都営大江戸線などもなく、帰りは六本木から渋谷までバスを使うのが一般的であった。しかし、22時に閉店してから発注業務などをやっていると、もう深夜バスの時刻になり、そうなると運賃が2倍になるのだ。それで、私は毎晩六本木から渋谷まで歩いていた。お金もそんなに無かったし、1枚でも多くのCDやレコードを買って聴きたかったから。

今年の夏、懐かしくなって厚木キャンパスがあった場所を久しぶりに訪れてみた。厚木キャンパスは数年前に移転し、跡地は現在、日産の研究センターのようなものになっている。当時の雰囲気はそのままだったが、やはり部外者は入れそうになかったので、中の様子までは見ることができなかった。しかし、外から見ても建物はそのまま残っている部分も多く、施設内掲示板などはおそらく当時使用されていたものと同じだと思われる。

2010年11月24日 (水)

音楽の歴史(超個人的かつすごく長い)。

インターネットのくだらなくもいとおしいみなさんとの間でどうにも懐かしの音楽というか「心のベストテン第一位はいつもこんな曲だった」(スチャダラパー)的な流れになり、なかなか楽しい数日間であった。

しかし、私は仕事の休憩時間だとか通勤の電車の中とか帰宅してから寝るまでの間とかにiPhoneとかパソコンでチマチマとやっていたわけで、一般的勤め人のユーザーのみなさんはガッツリ休日を有効活用してセレクションに勤しまれた方もいらっしゃり、ひじょうにうらやましく感じたものである。

しかーし!ついに私にも束の間の休みが訪れたよ。やっほい。

勤労感謝の日も物をバッサバッサと捨てたり整理したり、カラープリンターしに高円寺のオフィスに突撃して気をつかってミニコント連発したりした甲斐があったというものだ。イェイ。

それでもって、やるならやらねばだよ。オールオアナッシングだよ。わくてかもふもふ。という訳で、私がやるからにはガッツリやりますよ。ええ、やりますよ。メロスは激怒した。

出遅れた分取り戻しますよ。てなわけで、後発は人と同じことやってちゃダメ!ダメ、絶対!(とろりん師匠こと西村知美)

歴史は語る人の数だけある、などと言われますが、というか、いま適当に思いついただけなんだが、もう何年代はどうだったとかそういう話ではなく、一年一年を年表的に振りかえっちゃいますよ。しかし、使える時間はわずかしかナッシング!本日も予定をガッツンガッツン(石橋貴明)消化して、午後七時には道重さゆみちゃんが出る「脱出ゲームDERO!」を見なきゃあいけないんだよ。今日はワンセグケータイじゃないぜ。ちゃんと液晶テレビで見られるんだよ。なぜなら、その時間は家に私一人しかいないからね。なんという贅沢。

こうやって余計なことばかり言っているから時間が無くなるんだ。でも、そこがいいんじゃん。

閑話休題。じゃあ行くね。(でもこれじつは某マイミク氏が毎年誕生日にやっているやつのパクリなんだよね...)

【~1974】

TV漫画や特撮ものの主題歌などのレコードを買ってもらって聴いたりする。皆川おさむの「黒猫のタンゴ」のドーナツ盤は買ってもらっていたが、B面の「ニッキニャッキ」の方が気に入っていた。
親が持っていた「時には母のない子のように」とかいう暗い歌のレコードになぜか執着して聴く。あと、ヒデとロザンナの「愛は傷つきやすく」とか。

【1975】

よく理由は分からないんだが、細川たかしの「心のこり」のドーナツ盤を買ってもらう。おそらくただ単に「私バカよね~」という歌詞のフレーズが面白くて好きだっただけだと思われる。この曲にインスパイヤされ、小学生にして初の自作詞作曲曲「風のない日」を作る。
このぐらいの頃から意識的にテレビの歌番組を見るようになり、岩崎宏美の「ロマンス」を良い曲だなと思ったりした。筒美京平リスペクトのスタート地点ともいえる。


【1976年】

「およげ!たいやきくん」がなぜだか大ヒットして、家にもシングル盤があった。B面の「いっぽんでもニンジン」も好きだった。空前のたい焼きブームが巻き起こり、苫前町にまで移動屋台が来ていた。栄浜に住んでいたN岡君のお父さんがわざわざ上町にまで買いに来ていてビビった。以前、N岡君の名前をググったら記念切手コレクターとして名前が載っていた。人生いろいろだなぁ。布団屋さんのY代君や電器屋さんのO瀬君、また、一番仲の良かったK藤君などはどうしているだろうか。こういういらんことやってるから時間なくなるんだよ。どんどん行くぜ。ゴーゴーゴーアンドゴーズオン!(糸居五郎)

【1977年】

この年の春に旭川に引っ越したよ。親の転勤のためだよ。ピンク・レディーが大ブレイクで、可愛い女子は振りマネをしていたなぁ。男子はミーちゃん派かケイちゃん派かとか、いやあえて今だからこそキャンディーズ派とかそういうのがクラスではいろいろとあった。ロンドンではパンク・ムーブメントが起こっていたはずなんだが、まったく知らんかった。レコード大賞獲った沢田研二「勝手にしやがれ」の帽子を投げるやつを真似して大人の人達から怒られたりしていた。なぜかよく分からんが高田みづえが好きになり、「ビードロ恋細工」のシングルなどを買う。

【1978年】

キャンディーズ解散。解散コンサート音源を流していた「オールナイトニッポン」聴きながら寝ていたらメンバーが全裸で歌っているというよく分からん夢を見る。これはジークムント・フロイトに夢判断をしてもらった方がいい。ピンク・レディー派だったにもかかわらず、「微笑がえし」にハマる。
サザンオールスターズ「勝手にシンドバット」に衝撃を受ける。まずラジオで聴いて、それまで知っていたどの音楽とも違うし、とにかく歌詞やヴォーカルスタイルが斬新すぎた。そして、テレビで見るとランニングシャツのようなものを着てライヴハウス的な所でメチャクチャ盛り上がっている。即座にシングルを買う。
地元北海道では松山千春が大人気。「季節の中で」が「ザ・ベストテン」でも第一位になり、本格的に全国区でブレイクを果たすが、この曲で一度だけ出たテレビ出演で「テレビで歌うのって空しいよ」という旨の発言をし、千春△状態。地元STVの昼の番組「パック2」などには、「いまライヴハウスで若者に絶大な人気の~」的なノリで以前に出演したりしていたのだが。
榊原郁恵の「夏のお嬢さん」とかも買う。「明星」か何かに付いていたビキニ姿のポスターを堂々と部屋に貼っていた。
「オールナイトニッポン」で聴いて好きになった所ジョージ「現金に手を出せ」を買ってひじょうに気に入るが、親からはもっとまともなレコードを買いなさいと注意される。

【1979年】

ステレオの視聴会みたいなものに行ったらコンサートの券をタダでくれたので、旭川市民会館にスペクトラムの生演奏を聴きに行く。初のライヴ体験である。世はディスコ・ブームであり、AMラジオを聴いていてもドナ・サマーやアース、ウインド&ファイアーの曲などがよくかかる。
この頃、ラジオの遠距離受信にハマる。松原みき「真夜中のドア」、越美晴「ラブ・ステップ」など、大人な雰囲気のラヴ・ソングが素敵だなと思う。春先には時計のCMソングになっていた甲斐バンド「HERO~ヒーローになる時、それは今」のシングルなんかも買ったな。

【1980年】

旭川の西武百貨店にあのねのねが来て、T倉君と一緒に自転車飛ばして観に行く。原田伸郎が2階の回廊風の場所から観覧していたスカート姿の女性客に、「パンツ見えてますよ。肌色で真ん中だけ黒ですね」などと言っていて、そのネタは後からT倉君と100回は話題にした。
ポール・マッカートニー「カミング・アップ」を四条通りにあった小さなレコード屋さんで買う。これが初めて買った洋楽のレコード。それから、弟か妹の運動会の日に、OKUNOの下の玉光堂でビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」のLPを買う。しかも輸入盤。理由は安かったからだが、ビニールを剥がした時のインクか何かの匂いが強烈で、なかなか異国情緒を感じさせてくれた。ちなみにその時に同時に買ったのは倉田まり子の「ストーミー・ウェザー」。LPレコードの値段が2,500円から2,800円に上がってから初めて買った日本盤である。
倉田まり子が好きになったきっかけは、ラジオでサザンオールスターズの桑田佳祐が絶賛していたからである。
世はテクノブームであり、クラスにはYMOを聴いている者が多数いた。私も好きだったが何だか出遅れた感じがして、かつ友人の誰かが必ずLPを持っていたのでさして買う必要もなく感じていたところ、モノマネ番組で倉田まり子がプラスチックスの「DELICIOUS」を歌っていて、何だか面白い曲だなと思い、シングル、続けてLPを購入。ひじょうに気に入る。当時の文具や学校の机などにプラスチックスのロゴマークを落書きしまくる日々。
日本のヒットチャートはしばらくニューミュージックや大御所達が主流であり、アイドルはあまり売れていなかった。しかし、この年、田原俊彦が「哀愁でいと」で「ザ・ベストテン」にランクインする。「3年B組金八先生」で人気が出たたのきんトリオの一人ということだったのだが、私はその番組自体を見ていなかった。裏番組の「ビッグ・ベストテン」を見ていたのだ。「ザ・ベストテン」や「ザ・トップテン」を真似たフジテレビのカウントダウン番組なのだが、さだまさしの「親父の一番長い日」をフルで演奏するなどの試みは評価できるが、後期はピンチヒッターと称して出演できない歌手の歌をスケジュールが空いていた別の歌手が歌うなどといったグダグダ状態のままフェイドアウトしていった。
田原俊彦の圧倒的なキラキラ感というのは、何だか時代の変わり目を予感させてくれたが、それから松田聖子、河合奈保子、柏原よしえなどがブレイクし、80年代前半アイドルブームの幕開けとなるのであった。
この年の夏、父と初めての東京に遊びに来たのだが、後楽園球場の日本ハム対西武の試合前に柏原よしえがデビュー曲の「No.1」を歌っていた。

【1981年】

ビルボードのランキングを本格的に追いかけるようになり、当時チャートを席巻していたいわゆる産業ロックなどと呼ばれる作品たちを買ったりする。
土曜深夜、ラジオ関東「全米TOP40」を聴いて、日曜夕方にNHK-FM「リクエストコーナー」をエアチェック(死語)するというような週末。
前年末にジョン・レノンが凶弾に倒れ、テレビなどでビートルズ特集が多数組まれる。これがおそらくビートルズ初体験である。
ダリル・ホール&ジョン・オーツの「キッス・オン・マイ・リスト」を聴いて、めっちゃいい曲、これすごく好き、と思う。
NHK-FM「軽音楽をあなたに」で佐野元春を聴いてすぐに気に入り、ミュージックショップ国原で「HEART BEAT」のLPを買う。聴きまくる。ヘッドフォンで聴きながら鏡の前で歌ったりもする。特に「NIGHT LIFE」という曲は、私の「都会の気ままな暮らし」幻想をかきたててくれる重要な一曲となったのである。(先日の100曲選ぶ企画でこの曲入れ忘れたな)

【1982年】

パイオニアのカッコいいシステムコンポを買ってもらう。佐野元春がナイアガラ・トライアングルに参加した流れで、前年に大ヒットした大滝詠一「A LONG VACATION」を今さら買う。そして、やはりハマる。とにかく気持ちよい。
山下達郎「FOR YOU」もちょうど出たのでこれも買ってとにかく聴く。
松本伊代が好きすぎてツラくなり、「ラブ・ミー・テンダー」のシングルを何回も聴いてから学校に行ったりする。しかし、初夏の頃には早見優も好きになりファンクラブに入会。「Love Lite」という曲の英語の発音が良いところに強く魅かれる。ハワイ育ちだから当然なんだが。アイドル写真集というものを初めて買う。また、誕生日に自作曲をギター弾き語りして事務所に送るというキモヲタ行動を取ったりする。ヤバいね。

【1983年】

札幌の真駒内で当時人気絶大のRCサクセションとサザンオールスターズが夢の競演との情報が舞い込む。東神楽町から通っているそうご電器関係者ご子息のコネでチケットを入手し、女子と二人きりで札幌に観に行く。
当時のサザンオールスターズは売れているだけではなく、音楽的にも最先端のことをやっていたりして、辛口評論家も絶賛していた。
ジョー・ジャクソン「ナイト・アンド・デイ」、ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」といったちょいとジャズっぽいものが好きかもという感じがありながらも、カルチャー・クラブ、デュラン・デュランといったUK発のニュー・ロマンティクスだとかエレ・ポップだとかも好きになる。
秋に修学旅行でオープンして間もない六本木WAVEを訪れ、衝撃を受ける。めっちゃありますやん。しかもオシャレで都会的。オレ将来ここで働くような人になりたいかも、と思い、数年後にその夢は実現した(そして終わった)。
ポリス「シンクロニシティ」とかがめっさお気に入り。
「ロッキングオン」とか「ミュージック・マガジン」とか「宝島」は前年ぐらいから購読していたのだが、それらの影響もあり、ちょいと全米ヒットチャート以外のものにも手を出しはじめる。マルコム・マクラレン「俺がマルコムだ!」とかすごく好きだった。あとはPiLとか。

【1984年】

リア充すぎてあまり覚えていない(はぁと)。
とにかく初めて泣きたくなるぐらいに一人の人を好きになるという体験をして、それ以外のことはほとんど覚えていない。
ニューヨークから帰ってきた佐野元春の衝撃作「VISITORS」は賛否両論あったが、私はひじょうに刺激的な素晴らしい作品だと思った。冬に旭川市民文化会館でのコンサートに行った。
サザンオールスターズ「人気者で行こう」とかRCサクセション「FEEL SO BAD」だとか元々好きだったアーティストの新作を普通に買ってやはり気に入っていた。
渋谷陽一が「ロッキングオン」や「サウンドストリート」でデビューしたばかりの爆風スランプをひじょうに高評価していて、私も「よい子の歌謡曲」にアルバム・レビューを掲載してもらった。
原田知世「天国に一番近い島」を聴いて、こんな女の子いたら最高やん!!と思い、興奮する。
あと、夏には札幌のデパート屋上で開かれた菊地桃子の握手会に参加する。当時、アイドル歌謡を論評するミニコミ雑誌を編集発行していたのだが、調子にのって菊地桃子の専門誌も作ったところ、事務所から抗議の電話が直接かかってきて、涙目になりながら止めたでござる。
友人の影響でアズテック・カメラとか当時のラフ・トレード、チェリー・レッドとかのUKインディーものを聴きはじめる。スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」のオッシャレーな感じがじつに気に入る。いまだに古今東西で一番好きなアルバムかも。
ブルース・スプリングスティーン「BORN IN THE U.S.A.」も気に入ってよく聴く。当時は電子楽器のサウンドが世間に満ち溢れていたため、こういうストレートな正統派ロックンロールはかえってとても新鮮でカッコよく感じられた。
と、じつはいろいろあったじゃねえかよ。

【1985年】

松本伊代「あなたに帰りたい」。好き好き大好き。しかしこれも先日の100曲選ぶやつから漏れてるじゃねえか。適当すぎるねぃ。やり直しだあれは。
それはそうとして、尾崎豊「回帰線」収録の「Bow!」や小山卓治「イリュージョン」などをテーマソング気味にいよいよ上京物語、東京生活のはじまりである。春に出た芳本美代子「白いバスケット・シューズ」は全アイドル曲中で最も好きかも。芳本美代子自体にはそれほど思い入れは無いんだが。iPhoneから購入した今のところ唯一の曲がこれである。あと、80年代アイドル好きの女子とカラオケに行ったら決まってリクエストする。これと石川秀美「ゆ・れ・て湘南」。「涙のペーパー・ムーン」も捨て難いが。だから時間が無いんだって。
「夕やけニャンニャン」開始でおニャン子クラブデビュー。いつも行っていた近所のDISC510(またの名を後藤楽器店)では顔を覚えられていたので、わざわざ板橋駅前の小さなレコード屋まで歩いて行って「セーラー服を脱がさないで」のシングルを買う。
六本木WAVEとか池袋のオン・ステージ山野とか行きまくリング。初めてウォークマンを買う。風呂なし四畳半の大橋荘に住んでいて、ステレオも禁止だったので、この頃はLPレコードじゃなくて音楽カセットで買ったものも結構ある。渋谷駅前の露店で売ってた1,000円ぐらいの輸入カセットとか。ホイットニー・ヒューストンの1stとかはそれで買った。
夏にはライヴ・エイドがあり、テレビで観たり観なかったりした。フジテレビのIT'S MEこと逸見アナが「次はスタイル・カウンシルさんです」などと言っていた。
春に渋谷LIVE INNの小山卓治のライヴに行く。あと、一橋大学の小平祭とかいうもので爆風スランプが1,500円で観られるというので行ったのだが、前座バンドも大いに盛り上がっていた。デビュー前の米米クラブであった。
夏には西武球場(まだドームではない)にRCサクセション、暮れには日本武道館にこれまた爆風スランプを観に行く。RCサクセションのチャボこと仲井戸麗市「THE仲井戸麗市BOOK」が大のお気に入りとなる。

【1986年】

前年は受験勉強の傍ら、現在劇団青年座で活躍中のY山君と遊びまくった。その中で、B級アイドルをあえて応援してみるというものもあり、周囲の同じ受験生から心配されていた。私は志望校に合格できたのだが、Y山君はガッツリ落ちていた。しかし、これで役者への道が開けたかもしれないので私は悪くないよね。ね。
それで、新宿ルイードに網浜直子のライブに行った。「恋は微熱」とか「シリアス」とかガチで好きだったんだが、CDでも配信でも入手困難な現状が悩ましい限りである。
プリンス「パレード」のストイックなカッコよさに惚れぼれする。町田の丸井で初めてのCDプレイヤーを購入。前年にLPで買っていたスタイル・カウンシル「アワ・フェイヴァリット・ショップ」が初めて買ったCD。
夏に渋谷公会堂と厚木市民会館で開かれた松本伊代のコンサートに行った。感動した。帰りに渋谷のタワーレコードでザ・スミスの「クイーン・イズ・デッド」などを買った。
夏休みは旭川の実家にも帰ったが、札幌の友人の所にも世話になったりしていた。玉光堂で買った「NOW SUMMER」という2枚組コンピレーションLPに入っていたアイズレー・ブラザーズ「サマー・ブリーズ」がすごく気に入る。おニャン子クラブ「夏休みは終わらない」に夏の終わりの切なさを覚える。
フィリー・ソウルとかレア・グルーヴとかの甘いソウル系が一時的にすごく好きになり、六本木WAVEで何千円もするBOXセットを買ったりする。近田春夫がはじめたB.P.M.レーベルやRUN D.M.C.の大ヒットがあり、ラップに興味を持ちはじめる(本当につくづく節操ないよね)。
ジョー・ジャクソンとかRCサクセションとかのライヴに行く。

【1987年】

忌野清志郎がソロ作「RAZOR SHARP」をリリースし、そのツアーの渋谷公会堂と中野サンプラザに行く。あのアルバムはすごく好きで、最近iTunesで買い直した。
予備校時代の友人、S君と横浜に米米クラブを観に行ったのはこの年だったか前の年だったか覚えていない。
前年の暮れに買ったXTC「スカイラーキング」がめっちゃくちゃ気持ちよくって聴きまくる。結局私の好きな音楽って基本的に気持ちよいってことが大事みたいなんだよね。すごく濃密に好きなのはザ・スミスとかスウェードとかRCサクセションとかなんだけど、いつでも聴きたいかというとけしてそんなことはなく、いついかなるコンディションでも安定して好きというのになると、スタイル・カウンシルとかスティーリー・ダンとか山下達郎とかなのだな、これが。まあ、好きなものがたくさんあるというのは良いものだ。
パール兄弟「パールトロン」がすごく気に入る。サエキけんぞうの言葉のセンスにシビれる。ジョージ・マイケル「FAITH」とかバカ売れしたけれど、普通にカッコよくてすごく好き。
パブリック・エネミーとかLLクールJとかラップものがガチでいま一番カッコいいかも、とか思いはじめる。ザ・スミス解散で本格的にロックをあまり聴かなくなる。
トッド・ラングレンの「フェイスフル」というアルバムを買ったらビートルズ「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のカバーが入っていて、こりゃいいやと思い、六本木WAVEのワゴンセールで「マジカル・ミステリー・ツアー」のLPを買って、初めてオリジナルを聴く。他の曲も含め、ビートルズの凄さを改めて本格的に思い知る。それまでは初期のベスト盤しか持っていなく、後期の作品をちゃんと聴いてはいなかったのだ。

【1988年】

この年は何といっても岡村靖幸である。
春に実家に帰っていた時にロッキングオンJAPANで白黒1ページのインタヴューを読み、なんかこれは聴いてみたいかも、と思ったのだが、偶然にもその日の夜にFM北海道で「19(NINETEEN)」という曲がかかった。
いや、確かにジョージ・マイケル「FAITH」にすごく似てる。だがしかし、これは無条件にカッコいいぞ。言葉のセンス、メロディーへのノセ方、気持ちいいと気持ち悪いの狭間のヴォーカル、これは買わなくてはなるまい。
東京に戻ってからすぐさまCDを買い、しばらくそればかり聴く日々が続いたのである。プリンス、ビートルズ、松田聖子をリスペクトしているということが納得の音楽性。この年はアルバム「DATE」以外にも「聖書」と「だいすき」というシングルが出た。
あと、RCサクセションのカバーズ事件というのもあった。反原発ソングを含むカバー・アルバムをリリースしようとしたら、親会社が原発を作っているとかいう東芝EMIから差し止められ、結果的に別のレーベルから出たというもの。清志郎のセンスが存分に発揮された素晴らしいアルバムであった。ゲストも多数参加しているのだが、その中にはRCサクセションが大好きなおニャン子クラブ会員番号8番にして現在は秋元康の奥さまである高井麻巳子もいた。
エレファントカシマシにも衝撃を受けた。この年に出た2枚目のアルバムは今でもすごく好きである。しかし、当時は評論家受けはするものの、さっぱり売れていなかった。
秋にプラスチックスと近田春夫&ビブラトーンズが初CD化され、個人的に大いに盛り上がった。

【1989年】

いとうせいこう「MESS/AGE」がすごくカッコよくてしびれる。
ヤン富田が創りだすサウンドも素晴らしいのだが、とにかくせいこう氏のラップである。日本語でこれだけのことができるのかと度胆を抜かれた。聴いていて言葉に反応し興奮するという、新鮮な感覚を味わった。
デ・ラ・ソウル「3フィート・ハイ&ライジング」のカラフル・ポップさもひじょうに気に入り、やはりいま一番面白いのはヒップホップだなと思った。この頃は新しいロックには見向きもしなくなっていた。ルー・リードの「NEW YORK」といったベテランの意欲作は買って聴いていたけれども。
UKロック好きの間ではストーン・ローゼズが盛り上がっていたが、新しさが全く感じられず、さっぱり良さが理解できなかった(後にやっと分かり、すごく気に入るのだが)。
この頃は、もう新しいロックを熱心に聴く日はもう二度と来ないのではないかなどと結構真剣に思っていた。

【1990年】

「ミュージック・マガジン」などではワールド・ミュージックをすごく推していて、私も六本木WAVEでサリフ・ケイタだとかパパ・ウェンバだとかのCを買って当時は結構聴いていたんだが、それほどのめり込むことはなかった。
フリパーズ・ギターというバンドが良いと大学の友人から聴いてチラッと聴いたりはしていたのだが、センスがすごく良いなとは思ったものの、英語詞というところでいまひとつ興味が持てなかった。
ところがこの年に日本語で出した「恋とマシンガン」がスマッシュヒット。映画音楽だとかネオ・アコースティックだとかに影響を受けたと思われる音楽性と文学的な歌詞、サブカル的深読みをさせる部分などすごく気に入った。「カメラ・トーク」のアルバムは飽きることなくもう本当に何度も何度も聴いた。
あと、これまた日本のバンドでニューエスト・モデルの「クロスブリード・パーク」とかも気に入る。
シニード・オコナー「愛の哀しみ」、リサ・スタンスフィールド「オール・アラウンド・ザ・ワールド」、マドンナ「ヴォーグ」、ベル・ビヴ・デヴォー「ポイズン」など、大ヒット曲で気に入るものが意外とあった。
パブリック・エネミーの「フィア・オブ・ブラック・プラネット」が超絶カッコいい。
六本木WAVE通いの頻度が極度に高まる。キャロン・ウィーラー「UKブラック」がお気に召す。
そして、ハッピー・マンデーズの「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」である。ロックとダンスの融合なのだというマンチェスター・ムーヴメントについては音楽雑誌などで読んで知っていた他、その代表曲といわれるものなども聴いてはみたものの、いまひとつピンときていなかった。
しかし、このアルバムは一発で気に入った。とにかくグイグイくる。ショーン・ライダーの投げやり気味なヴォーカルもすごくいい。

【1991年】

ハッピー・マンデーズがきっかけとなり、いわゆるインディー・ダンスなるものを聴くようになる。ジーザス・ジョーンズとかシャーラタンズとか。一方で殺伐系などと呼ばれていたUSインディーのノイジーなバンド達にもちょいと興味が湧いて、ダイナソーJRなどを買ってみる。
六本木WAVEに頼み込んで働かせてもらうことになるが、ポピュラー音楽のフロアに空きがなく、とりあえずクラシック売場のオペラ・ハウスなるところで、来る日も来る日もぶっとい複数枚組のオペラのCDを袋詰めしたり陳列したりする日々が訪れる。しかし、昼休みに食べる隣のMOTIのインドカレーは超絶うまかった。
来店した本物のモリッシーを生で見て興奮する。客注の商品が入荷した連絡を原田知世の家の留守電に入れたりして興奮する。でもいま思えばあれたぶん事務所の電話番号だよね。
ピクシーズの「世界を騙せ」が超ラウドだったりパブリック・エネミーがアンスラックスとコラボしたりして、次第にうるさめな音楽への興味が湧いてくる。メタルは大嫌いな音楽ジャンルだったじはずなのに、この頃はメタリカの新譜すら買って愛聴していた。その流れでレッド・ホット・チリ・ペッパーズがきてニルヴァーナの「ネヴァーマインド」である。これはカッコよかった。当時はグランジなる言葉もまだ広まっていなくて、このアルバムの「ロッキングオン」でのレビュー見出しは「売れそな殺伐」であった。
ブラーが「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」をヒットさせたが、インディー・ダンスのブームに乗って出てきた一発屋程度の認識であった。
セイント・エティエンヌ「ナッシング・キャン・ストップ・アス」、エレクトロニック「ゲット・ザ・メッセージ」などを気に入る。

【1992年】

晴れて3階のポピュラー音楽売場に移動させていただき、国内盤ロック&ポップスを担当させていただくことになった。春に短期アルバイトに来ていた女子大生にモテたくて、NMEを購読しはじめる。
一応大学では英米文学などを勉強していたものの、本当にガッツリ読めるかどうかは定かではなかったのだが、意外とイケることに気づく。かつ内容がすごく面白く、日本の音楽雑誌をあまり読まなくなる。
前年に同じクラシック売場で働いていたA君と出会った。彼も別にクラシックが好きだったわけではないのだが、ポピュラー音楽売場に空きがなくてこっちに配属されていた。いわゆるUKインディー系が好きで、それの系のバンドもやっているということだった。休憩時間には菓子パンを買って近所の公園でそれを食べながらNMEを読んでいた。
それまでの私はポピュラー音楽をサウンド主体で聴いている部分が大きく、ゆえにヒップホップだとかハウスだとかは新しいがロックはもう古いというような価値観で聴いていた。この頃にラウドなロックを聴きはじめていたのも、今度はこのサウンドが旬だからというような理由でしかなかったような気がする。
「ミュージック・マガジン」などにしても、そのようなポピュラー音楽として新しいか古いかという価値観で音楽を語っている部分があり、少しは私に影響を与えていたと思う。
しかし、A君の音楽の聴き方は違っていた。要はサウンドとして古いか新しいかではなく、良いか悪いかなのだと。確かにその通りだ。彼はインディー音楽を好んでいたが、マーヴィン・ゲイやスライ&ザ・ファミリー・ストーンといった他ジャンルの古い音楽も、良いものは貪欲に吸収していた。それがなんだかとても楽しそうだったのだ。
売場で各ジャンルの担当をしていた先輩社員達はほとんど「ミュージック・マガジン」をバイブルとしているような人達だったので、音楽をサウンドとして古いか新しいかで判断したり、より多くの音楽を聴き込んでいる方が偉いというようなスノッブ的な部分があり、それに違和感を覚えたりした。
そして、私の音楽の楽しみ方は次第に変わっていった。新しさが感じられず良さが分からなかったストーン・ローゼズやティーンエイジ・ファンクラブが一気に好きになった。ニルヴァーナもサウンドだけではなく、曲のよさこそが魅力なのだと思うようになった。あと、ラーズとかも。
A君は喘息を患っていて、数年後にそれが原因で亡くなった。しかし、彼の音楽を楽しむ姿勢は私の中でずっと生き続けている。
NMEを読みはじめた頃にスウェードがデビューしてすごく盛り上がっていたが、日本にいてデビュー・シングルを入手することは困難をきわめた。いまのようにインターネットなどもないため、曲を聴くことさえできず、ただただ雑誌を読んで妄想を広げるしか術がなかった。そして、やっと西新宿のラフトレード・ショップで入手することができた。家に帰って聴いてみて、すぐに気に入った。グラマラスで淫靡な世界観は当時のシーンにおいて、じつに新鮮であった。
ある日、ソニーの女性社員が売場にスウェードのシングルを求めて来店した。売場には在庫していなかったが、なんだかとても嬉しく、個人的に自宅でダビングしたカセットをプレゼントした。数週間後、その人がまた売場に来て、日本ではソニーから出すことが決まったと教えてくれた。

【1993年】

夢は終わった。いまさら何が言えよう(ジョン・レノン)。というわけで、諸事情により充電期間に入った。
午前中は学校、午後から睡眠、夜から朝にかけてアルバイトという毎日。週末は休みにしていたので、土曜日の夕方ぐらいから六本木WAVEとすぐ近くの青山ブックセンターに行くことが楽しみであった。
この頃は、とにかく過去の自分と訣別して、再スタートを切ろうとかそのようなテンションであった。
好きだった女性にはやんわりと振られたわけだが、秋ぐらいから別の子と付き合うことになったりもして、それなりに充実してはいた。
スウェード、ブラー、レディオヘッド、レモンヘッズ、ビョークとかの新作を好んで聴く一方で、この年NMEが発表した歴代ベスト・アルバムを手掛かりに旧作を買いあさったりもした。
また、メロディー・メーカー(NMEの今は無きライバル音楽紙)の記事を読んで買ったビッグ・スターが最高に気に入り、中でも「セプテンバー・ガール」という曲は、いまだに私が文句なしに大好きといえる曲ランキング第一位である。

【1994年】

年始はアンダーワールドのアルバムをよく聴いていた。
それから当時めちゃくちゃ勢いがあったクリエイション・レコード一押し新人だというオアシスというバンドの音源をNME付録のカセット・テープで聴いた。T・レックス「ゲット・イット・オン」にすごく似ていたが、結構良かった。
デビュー・シングル「スーパーソニック」が出てすぐに買い、それ以降もシングル、アルバム共にハズれなしで、世間の取り上げ方も徐々に大きくなっていった。渋谷のクラブクアトロで初来日公演が決まり、当時のガールフレンドにチケットを取ってもらったが、公演日にはすでに別れた後だった。でも、現地で待ち合わせて一緒に行った。ライヴは最高だったが、ほろ苦い思い出である。
そのガールフレンドと4月のある土曜日に渋谷のWAVEにいると、ニルヴァーナの「ネヴァーマインド」に入っていた曲がかかり、何でいまこれがかかるのか疑問を抱き、ただいま演奏中のCDジャケット表示するモニターを見たら、「カート・コバーン自殺」とか書いてあって、一瞬頭の中が真っ白になった。インターネットも携帯電話も使っていなかった当時、ニュースはこうやって知っていたのだ。
スウェード「ドッグ・マン・スター」、マニック・ストリート・プリーチャーズ「ホリー・バイブル」という大のお気に入りアルバムを同日に購入する。西新宿のラフトレード・ショップでだ。
年末に社員旅行でマレーシア、シンガポールへ行き、ホテルで流れたマドンナ「テイク・ア・バウ」及びMTVで流れたマライア・キャリーのクリスマスの曲が素直に良いと思った。

【1995年】

カーディガンズとかカヒミ・カリィとかの渋谷系、あるいはオアシス、ブラー、パルプなどのブリットポップ。要は明るくポップな感じ。現在の妻はすでに半同居状態で、生まれてはじめて猫がいる生活を経験した。もう引き戻せないね、こりゃ。
普通に土日が休みの会社に勤めていたので、週末は一緒に渋谷や銀座などに出かけた。しかし、私がCD屋と本屋にしか興味がない件について、苦情が出はじめる。
日本武道館のビョークとか新宿リキッドルームのブラック・グレープとかを観に行ったと思う。

【1996年】

引き続きゆるめの暮らし。平日仕事で週末は渋谷とか銀座とか下北沢とか。
ベックの「オーディレイ」やマニック・ストリート・プリーチャーズの「エヴリシング・マスト・ゴー」やスウェードの「カミング・アップ」なんかがお気に入り。
お台場にスウェードとスリーパーとエルマロとあと1バンドのライヴイベントに行く。
浦安にモリッシーを観に行ったのもこのぐらいの時期だったと思う。チケット取った直後に恵比寿で追加公演が発表された。新宿リキッドルームのニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズもこの年だろうか。
NME.COMが開設され、今は無きサイバー・オズというプロバイダーが運営していた原宿のインターネット・カフェへ行く。NASAが着るみたいな銀色のコスチュームを着た女性スタッフが数名いて、丸テーブルに数台のノートパソコンが置かれ、それをいろいろな人達が見ていた。私はNME.COMのみならず、過去のNMEのリストを全部公開している個人サイトを発見して大興奮した。隣の男性二人組はスコラのサイトを見ていた。
これはいいとサイバー・オズと契約し、我が家にインターネットがやって来た!
妻はすでに仕事で使うようにマッキントッシュを持っていたので、それを借りて見たりしていた。

【1997年】

前年いっぱいで退社し、正月明けから別の会社で働きはじめる。急に高収入になり、銀行口座につねに数百万円の残高があるという状態をはじめて経験する。
だがしかし、精神状態は最悪にしてボロボロ。詳しくはもう書きたくないです。
とにかく欲しいCDとか本とかは全部買えて、あとマックのノートパソコンを買ったらもうおカネで買えるもので欲しいものは一つもなかった。しかし、幸せではなかった。
ノートパソコンはCDの書き込みすらできなかったのだが、30万円以上もした。しかし、これで私も妻に気兼ねなくインターネットができるようになったわけである。
この年はレディオヘッド「OKコンピューター」、ヴァーヴ「アーバン・ヒムズ」、スピリチュアライズド「宇宙遊泳」、ブラー「ブラー」とか。

【1998年】

精神的にもうムリ!ということで、1年わずかで転職。それが今の会社。
とにかく仕事が忙しく面白くもう最高にリア充ムードだったんだが、その一方で家に帰る頻度が極度に低くなり、後の家庭の危機へと繋がっていく。
ローリン・ヒル「ミスエドゥケーション・オブ...」とかビースティ・ボーイズ「ハロー・ナスティ」とか。

【1999年】

相も変わらず公私ともに多忙かつ家庭を顧みず。いかんねぇ。
フレーミング・リップス「ソフト・ブレティン」とかスーパー・ファリー・アニマルズ「ゲリラ」とか。暮れ近くに管理職昇進。

【2000年】

葛藤の日々。
プライマル・スクリーム「エクスターミネーター」、エミネム「マーシャル・マザーLP」、コールドプレイ「パラシューツ」とか。

【2001年】

引き続き葛藤中。
ストロークス「イズ・ディス・イット」。

【2002年】

まだまだ続く。
コールドプレイ「静寂の世界」。

【2003年】

上向き加減。平成の侍および家宅の人モード。
ホワイト・ストライプス「エレファント」など。

【2004年】

ハイとロウ。シラフで分かる意味の濃さ...とか何とか。
フランツ・フェルディナンド「フランツ・フェルディナンド」、リバティーンズ「リバティーンズ」、ザ・ストリーツ「オリジナル・パイレート・マテリアル」とか。

【2005年】

前年のフランツ・フェルディナンドあたり以降、ブロック・パーティー、フューチャーヘッズといったニュー・ウェイヴの影響を受けた若手バンドが続々と出てきて俄然楽しくなる。
一方、本格的な暗黒時代の幕開けでもある。終わりなき日常を生きろと言い聞かせるしかない状態。
死んだふりをして生きていたような印象である。

【2006年】

年始からアークティック・モンキーズのデビュー・アルバムが最高すぎて上機嫌。
夏はリリー・アレンのレゲエ風ポップス「スマイル」も大のお気に入り。
この年、ブログなるものを始める。それからmixiとかlast.fmとかYouTubeとか。
あと、モーニング娘。なんか興味ないくせに2ちゃんねるモ娘(狼)板のカオスっぷりに安らぎを覚える。なぜなら現実で嫌なことがありすぎたんだよ。この頃から抜け出せて本当良かったと改めて思うの。
モーニング娘。の亀井絵里が少し好きになりかけるがすぐに飽きる。

【2007年】

年始からクラクソンズのデビュー・アルバムが最高すぎて上機嫌。
YouTubeで見たモーニング娘。「笑顔YESヌード」が気に入って、はじめてCDを買う。日本人アーティストのCD買うこと自体数年ぶりである。
「ハロモニ」見たりモ娘(狼)読んだりしているうちになぜだか道重さゆみの魅力にズブズブとハマっていく。何なんだこれは。訳分からん状態。でも好き。
過去ラジオ音源全部聴いたり20年以上ぶりに写真集買ったり本人見るために生まれて初めて大阪行ったり果ては聖地巡礼など、いよいよ手に負えない状態。
年末近くに出たモーニング娘。の「みかん」もすごく気に入る。

【2008年】

引き続きメインは道重さゆみ。モーニング娘。「リゾナントブルー」、はじめは良さがよく分からなかったが聴き込むうちに染みてくる。
道重さゆみが家族や地元を大事にしていることに影響を受け、13年ぶりに実家に帰る。北海道の自然の中で父の車のカーステレオから流れたYUIの「SUMMER SONG」がなぜだかすごく気に入る。
他にはMGMTとかグラスヴェガスとか。ボブ・ディランの未発表曲集もよく聴いた。ハロプロの真野恵里菜も秋以降ぐらいに結構聴いた。この年の一番好きだった曲に「ラッキーオーラ」を挙げたりしている。

【2009年】

9月に大阪のホテルにいる時にパソコンで聴いたBase Ball Bearに一気にハマる。青春の炸裂である。
他にも一時的に気に入ったものは多々あったのだが、継続的に聴き続けるのはあまり無かった。暮れ近くに聴いたジェイ・Zの「エンパイア・ステイト・オブ・マインド」は好きだった。

【2010年】

仕事場でかけていたAKB48「神曲たち」が少しずつ気になり、「ポニーテールとシュシュ」が出る頃には総選挙投票のお祭りムードもあって、すっかりファン状態。「ポニーテールとシュシュ」のPVが最高だったのも一つの要因である。一時的にメンバーのまゆゆこと渡辺麻友に入れ込み、ブログ毎日読んだり「AKBINGO!」毎週観たりするが、フワフワしながら次第にフェイドアウト。渡り廊下走り隊に至っては「青春のフラッグ」を買って握手会イベントに参加したり汐留に公開録画を観に行ったりもしていた。「走り隊GO!GO!GO!」や「完璧ぐ~のね」には、いまだに心が騒ぐ。
Base Ball Bearの「クチビル・ディテクティヴ」がすごく気に入る。

いやしかし、それにしても長すぎだろ。
全部読んでくれた方、お疲れさまでした。みんなもやってみるとイイよ!(さすがにこれをやる酔狂はいないだろうね)

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