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2010年8月29日 (日)

道重さゆみ。

iPhoneはパソコンと同様にインターネットのお気に入りのページへのショートカットをデスクトップに置いて、即座に開くことができるようになっているのだが、道重さゆみちゃんがGREEでやっているブログもそのようにして読んでいる。しかし、それはつい数日前からのことだ。

自室にてフードを被ったり何やら考えごとをしていたり、そんな写真を眺めていて、やはりこの子の魅力というのとは唯一無二だなと、熱心なファンだった頃を懐かしく思った。つい数ヶ月前までのことなのだが、随分と昔のような気もする。

iPhoneの画面をつまんで、写真を引き伸ばしたり縮めたりしてみた。本当に可愛い。こんなに可愛い女の子は他にどこにもいない。

先日、路上にて可愛い女性に偶然出くわした。ここ数ヶ月の間、通りや電車の中などで何度か見かけてはいたのだが、直接的な関係も無くなった今、声をかけられても迷惑だろうと思い、気付かないふりをしていた。数週間前に職場に来て、少しだけ話をして、やはり楽しいなと思ったのだが、仕事中でもあったため、自粛せざるをえなかった。最後に彼女がフラれたと言っていたのがとても気がかりだった。

そんな彼女と偶然に会い、結果的に路上で二時間も話し込んでしまった。彼女がフラれたという話の詳細と、それについての見解という外部から見るときわめてどうでもいい話である。

彼女と出会った頃、あるバンドの熱心なファンであるという部分で、ひじょうに話が盛り上がった。地方のライヴなどにも行き、メンバーやスタッフから認知される程だという。そして、メンバーの一人のことをとても好きだということだった。まさに生活がそれ中心にになっている。

ところが最近、自分が相手にとってはただのファンに過ぎないのだということを気づかざるをえないような件があり、また、最近はバンドの音楽性にも疑問を持っているため、以前としてライヴには欠かさず行っているが、全然楽しくはなく、他のファンにも聞こえるように文句を言ったりもしている状態だという。

私はもちろん彼女側に立って話を聞いていたのだが、これをアイドルヲタクに例えるならば、いわゆる迷惑ヲタと呼ばれる種類の人達だな、と思った。現に私にも身に覚えがあるし、そういう状態というのは自分自身にとっても健全ではないし、相手や他のファンも不愉快にするし、全くもって誰も得する人がいないのだ。しかし、頭では分かってはいるものの、思い入れが強く、ある面で精神的に依存していたりすると、なかなかその循環から抜け出すことができない。

私の場合はそれ以前にそのタイプのいわゆるヲタの存在を苦々しく感じ、批判をしていたため、いざ自分がそれに近い状態になった時には、さっさと撤退するという決断を下すことができた。いや、言うほど楽だったわけではないが。

それでも、一旦撤退を宣言した後、その空白を埋め合わせるように、他のもので間に合わせようとしたが、その真実、自分自身でも騙し騙しやっていたことがいとも簡単に見破られると、それをきっかけとして、熱が急速に冷めてしまった。

そんな経緯が自分自身にもあったから、この辺りを客観的に話し、結果的に彼女を泣かせてしまった。本当にどうしようもないね、まったく。少し距離を置いてみるといいんじゃないか、なんて言ってみたりして、何を偉そうに。

結局、宗教とか熱心なヲタっていうのは、自分自身の足りない部分を誰かを熱心に愛したり崇拝することによって同一化し、あたかも自分がその一部になったかのように錯覚して、何とか自我を保っているというか、そんなような構造なのではないか。

私が道重さゆみちゃんのことを本格的に知ってのめり込んだ頃のことを思うと、本当に無意識に魂の救済のようなものを求めていたような気がする。

とにかく幻のような何だかよく分からないが、ここではないどこかにある何物かを漠然と求め、それはおそらく肥大化した自我の充足というこよだったと思うのだが、何をやってもそれを得ることが出来ず、ならばいっそのことすっかり諦めて、この世はくだらんとすれっからして不承不承死ぬまで生きていこうじゃないかという、そんな感じだったように思う。

道重さゆみちゃんと出会うことにより、私の中に圧倒的な肯定感というものがよみがえり、その真実を解き明かそうと求め続ける中で、家族だとか地元、自分の過去や周囲の人達を大切にするというきわめてシンプルなことに気づかされた。

そこにあった感情とはアイドルに対してファンが抱きがちな疑似恋愛感情だとか萌えといったものとは一線を画し、まさに宗教的熱狂とも呼べる種類のものだった。あら危ない。

そして、それはクラッシュするべくしてしたといえる。本当の原因はともあれ、いずれそうなるべく宿命づけられていたのだろう。これでよかったのだ。

毎年、夏には聖地巡礼という企画を敢行していて、それは道重さゆみちゃんゆかりの地を訪れてみるというものだった。実は夏だけではなく、四ヶ月おきぐらいにコンスタントに行っていたのだが、今年はもうやめたし、今後ももうやらない可能性が高い。その代わりに、自分が生まれ育った場所だとか、近い人達との関係をもっとちゃんとやっていこうと思った。

かつて、道重さゆみちゃんになりたいと書いたが、そこに偽りはなかった。本当に本気で憧れていたのだ。しかし、私は道重さゆみちゃんではない。次に、自分は自分にとっての道重さゆみちゃんを生きようと思った。だから、結局、これでよかったのだろう。

もう道重さゆみちゃんに依存もしていなければ、そこに宗教的熱狂も無い。ラジオを聴くのもやめて、テレビも見なくなったけれど、全然平気だ。おそらくもう大丈夫だろう。事務所やメンバーがどうだとかヲタがどうだとかも、もはや関係ない。道重さゆみちゃんというかつてすごく好きだった女の子がいて、その子のことが今でも好きだと思えるという、その事実がただあるだけ。そう、本当にそれだけだ。それがすごくいい。

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