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2010年11月 4日 (木)

君が僕を知ってる。

この文章を書いている時点で、道重さゆみちゃんのGREEのブログがまる一日以上更新されていない。ここ数カ月間は読んだり読まなかったりで、全ての記事をフォローできているわけではないが、これはきわめて異例のことではないか。

11月1日に田中れいなちゃんのブログに掲載され、その後、削除されたある記事が原因ではないかという説が有力である。

削除された記事は二つあった。一つ目は田中れいなちゃんが亀井絵里ちゃんに何か面白いことが無いか聞いたところ、目を吊り上げて韓国人の顔真似だと言ったらしい。田中れいなちゃんにはそれのどこが韓国人なのかよく分からなかったのだが、おそらくそれが亀井絵里ちゃんにとっての韓国人のイメーなのだろうと解釈したようだ。それで、その吊り目を田中れいなちゃんと亀井絵里ちゃんがした画像と、それからその逆の垂れ目をした画像の両方を載せていた。

もう一つの記事では、同じことを道重さゆみちゃんとやっていて、同じく吊り目と垂れ目の画像を掲載している。この記事には韓国人うんぬんの文章は無い。

じつはこの記事はまだ削除されていない時に見ていた。なぜなら、モ娘(狼)板の道重さゆみちゃんブログスレッドで話題になっていたからだ。これはダメだろうと思った。

翌日になって記事は削除され、田中れいなちゃんと道重さゆみちゃんのブログの更新が止まった。亀井絵里ちゃんはそもそもブログをやっていない。

モーニング娘。は11月3日祝日に東京で開催されたラーメン関係のイベントに出演していたらしい。

目を吊り上げるポーズは、西洋ではアジア人を侮辱するポーズとして知られているらしく、昨年には、アメリカの人気女性シンガー、マイリー・サイラスがプライベート写真で同様のポーズを取っていた件で、アジア人団体から謝罪を求められたりしていたようだ。

今回、亀井絵里ちゃんがどのような意図でこれをやり、また、田中れいなちゃんがどのような感覚でこれをブログに載せたのか、また、道重さゆみちゃんに対し、このポーズの意味を説明したのか、はたまた単純に上がり目下がり目を一緒にやろうと言ったのか、さらにはこのブログ記事が掲載されるに際して、スタッフによる検閲などはなかったのか、などと様々な疑問があるのだが、現実的に田中れいなちゃんと道重さゆみちゃんのブログは更新されていない。それがこの件と関係があるのか無いのかは定かではないが、関係がある可能性がひじょうに高いと推測できる。

インターネット掲示板などでは、特に中国や韓国の人達のことを悪く言う書き込みなどをよく目にする。現在、30代以下の人達の一部にその影響が強く、小林よしのりの「戦争論」だとか「嫌韓流」といった書物に多感な時期にふれてきた世代だろう。また、ネット右翼と呼ばれる人達もこの世代に多いような気がする。

欧米の音楽雑誌などを読んでいると、まず人種差別は良くないことというのが根本的な立場になっている場合が多い。たまたま私が購読している雑誌にそのような傾向が強いだけなのかもしれないが、単なる音楽批評の枠を超え、人種差別主義的な論調や意見に対しては徹底して批判的である。

イギリスにはイギリス国民党という極右政党があり、移民排斥などを掲げている。元ザ・スミスのモリッシーは、UKインディー界のカリスマ的存在であったが、イベントに英国旗を纏って登場したり、インタビューで極右政党であるイギリス国民党にも発言権はある、などと言ったことにより、イギリスのインディー系音楽ファンに最も影響力のある音楽誌、ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)から大バッシングを受けた。

また、イギリスのロック・アゲインスト・レイシズムやアメリカのアパルトヘイトに反対するアーティストたちのように、欧米ではポップ音楽と反人種主義とは密接に関係してきた。彼らの生活の中には、無視することができないものとして人種問題が存在し、ゆえにそれに対してどうあるべきかというコンセンサスを形成する必要があったのだろう。

日本は、一見単一民族国家のようでもあり、人種問題の切実性というのが比較的薄いような気がする。

イギリスのサッチャー政権下では多数の失業者が生まれていたわけだが、仕事に就けない若者は、移民達が自分の仕事を奪っているなどという現実逃避をし、ナショナル・フロントなどの極右政党に入れ込み、街路で移民を集団暴行したりして憂さを晴らしていた。数年前にイギリスで公開された「THIS IS ENGLAND」という映画などはこういったことをテーマにしていたわけだが、じつに無知でかつ愚かなことである。

私などは実際に仕事場で中国や韓国からの留学生と共に働くことなども少なくなく、その国籍だけで人を批難するという精神性が信じ難く、少なくとも私の職場ではそのようなことは絶対に無いようにということを強く意識している。

嫌悪感や憎悪の根底にあるのは恐怖の感情である。日本の国力の低下、自分自身の生活の不安定さ、そのような要素からくる恐怖が、誤った標的に対して発散されている。

火曜日にオリコン週間ランキングが発表され、AKB48の「Beginner」が順当に初登場第一位を獲得した。売上枚数は82万6989枚であり、これは発売週一週間の売上では、SPEEDやモーニング娘。を破り、女性グループ歴代最高の記録だということだ。

特典目当ての複数枚買いなどが相当数あり、この記録にいかほどの価値があるのかという声もあるわけだが、これだけ深刻なCD不況、かつこの曲は特典など一切関係の無いiTunesの配信ランキングでも第一位を続けていることからみても、やはり見事なもので、現在のAKB48はその栄誉に相応しいグループだといえる。

一方で同日に発売されたむてん娘。(モーニング娘。)の「あっぱれ回転すし!」は、「Beginner」の売上の一割にも満たない7336枚、第十三位に終わっている。この曲はくら寿司とのコラボレーション企画で制作され、中の人はモーニング娘。であり、ジャケットにもモーニング娘。のメンバーが写っているが、あくまでむてん娘。名義で発表されている。よって、モーニング娘。の連続トップ10入りの記録は、おそらくまだ途絶えていない。

別にセールスで凌駕しているからといって、電車の中で普通の女子高生達が話題にしているからといって、イベント会場に行っても今どきの若者達で賑わっているからといって、メディアにたくさん出ているからといって、それを応援しなければならない理由は全く無い。好きなものを堂々と応援していればいいのだ。

自分にその魅力が分からないのならば、それは趣味に合わないだけのことである。自分が応援しているものの方が売れていないが、パフォーマンス力が高いとかルックスが良いとか、売り込みが足りないだけだとか、世の中がおかしいとか、そういうことにして安心したい気持ちも分からなくもないが、結局のところ疎外感を強め、より閉塞化、カルト化していくだけのような気がする。

高水準のパフォーマンスが見たいのならば、シルク・ド・ソレイユの舞台とかの方がずっと良い。上手な生歌が聴きたければ、ゴスペルやR&B歌手のコンサートに行く。要は好みの可愛い女の子がそれをやっているから好きなのであり、歌唱力もパフォーマンスも好みの問題でしかありえない。昔、RCサクセションのチャボのギターを、「あんまり速くないね」と言ってきたヘビメタファンの友人がいたが、それと同様の的外れ感を感じずにはいられない。

私も「気まぐれプリンセス」のイベントに当たって観に行かせてもらったことなどはあるので、確かにモーニング娘。のダンスはキレがあって思っていた以上にカッコいいなと感心したものだ。しかし、それだけで夢中になるかというとそういう訳でもない。

芸能人とは芸事ができていれば、多少は世間一般とかけ離れていても問題は無いのかもしれない。かつての大御所と呼ばれる人達のエピソードなどを聞いたり読んだりすると、そのような気分にもなる。しかし、ブログなどによる等身大感覚が受ける平成ニッポンのタレントはどうなのだろう。

KY(空気読めない)が流行語となり、同調圧力がキツいと感じる。一方、コミュニケーション能力こそが高く評価される。

たとえば幼い頃から芸能界に入り、チヤホヤされ、ある意味世間一般から隔絶されたところで生きてくる。大半の同年代の人達のように学校に毎日通って毎日授業に出ず、お仕事をしてお給料をいただく。しかもそのお仕事の現場というのが、これまた一般社会から見るとちょいと特殊な場所である。優しいファンの人達は全てを肯定してくれる。文句を言いながらもおカネを払う。大の大人がキャーキャー言ってチヤホヤしてくれる。それでいいんじゃないかと思っても仕方はないだろう。

ブログやバラエティーは世間だ。しかもそこが主戦場であり、これが従来の芸能人とは異なっているのかもしれない。これはある意味、ひじょうに不幸である。

濃いファンには受けてもなぜ世間一般には支持されないかというと、それはその感覚がズレているからに他ならない。趣味の世界ならいざ知らず、ポップであるとはそのようなことなのだ。パフォーマンスがとか本物だとか言ってもそういう論点では全く無い。要は完全にズレているのだ。

趣味ならばズレていたって良いじゃない。世間である必要なんて一切無い。本物を標榜するならば、そのぐらいの覚悟を持てよ。AKB48陣営や韓流アイドルが分からないから、あるいは分かりたくないから、粗を探して都合の良い理由を考えて、イライラしているだけである。好きなことを追求するから趣味のはずなのに、なぜだかすごくイライラしている。

私は芸能人やアイドルが好きなわけではなく、素敵な女の子の天使性にただヤラれたいだけなのだ。だから普通がすごく良い。そこが天才的なのだ。

それを知っているからこそ、離れ離れになどなれないことは、とっくの昔に分かっていた。無難に生きる、とはだからこその目標である。無難に生きられない性だからこそ、無難に生きる。そう決めて、心に思っていなくてはいけない。そうしていないとはみ出してしまう。そのことの悲しみを誰よりも知っている。

だから私はもっと大きく広い人間にならなければいけないと、心から思った。これだけのためにも、その価値はある。なぜ、こんな時に何もできない。涙は悲しさのためではないというのに。

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