日記・コラム・つぶやき

2011年7月30日 (土)

ハイ&ロウ。

BUBUKAという雑誌に、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」などで知られる声優の平野綾によく似た女性が、男性と接吻をしているような写真が掲載されたということで、一部のファンがひじょうに動揺しているようである、

この平野綾という声優のことはよくは知らないのだが、アイドル的な人気があるのだという。CDを出したりライヴをやったり、音楽活動にも積極的に取り組んでいるようだ。

少し前に「グータンヌーボー」というテレビ番組に出演し、リアルな恋愛について語ったところ、この時にも多くのファンがひじょうに動揺したようである。

つくづく大変な職業である。

昔からアイドルは恋愛禁止というようなことは言われてはいたが、それはあくまで建前であり、そういったていでネタ的に楽しむという認識が共有されていたように思う。

小泉今日子の「なんてたってアイドル」の「恋をするにはするけどスキャンダルならノーサンキュー」という歌詞にファンをバカにしているなどと目くじらを立てるものなどいなかったし、おニャン子クラブの「新・会員番号の歌」だかでは、確か横田睦美あたりが、恋愛禁止なんてナンセンス、などと言っている。

では、なぜこうなった。

やはりそれは、いわゆる高齢マジヲタなる存在のせいなのではないかと思う。

アイドルヲタクにおいて、高齢とは何歳以上を指すのか。昔ならば大学生にもなってアイドルを追いかけていれば、いい歳をして、などと蔑まれるような雰囲気があったが、そこをサブカル的な理論武装で颯爽とすり抜けたりはしていた。

しかし、今やそれが30代、40代は当り前という世界である。10代の頃にアイドルを好きだった若者がそのまま加齢したような計算になる。

これはアイドル文化の成熟を意味していて、その昔、ロックンロールは若者のための反逆の音楽だったが、歴史を重ねるにつれ、今や大人のロックなどという言い回しが可能なまでになったのだ。

アイドルという文化は確かにそれだけ素晴らしいものであり、同世代の人たちとの思い出話などでもひじょうに盛り上がる。

ならば、なぜに高齢アイドルヲタクは気持ち悪がられるのか。

それはおそらく、アイドルを好きになるという気持ちの中で、疑似恋愛的な要素が、一般的に強いと思われがちだからであろう。

中学生や高校生の男子が同年代ぐらいの可愛い女の子に恋愛感情を抱いたとした場合、それは一般的にも容認されやすい。しかし、これが30代、40代のいい大人がそうだとしたら、これは気持ちが悪いと思われがちである。

世間一般から容認されにくい趣味嗜好というのは、カルト的に濃縮されやすい傾向にある。

若い女の子を可愛いと思う気持ちはごく自然なものであり、何ら責められる類のものではない。それがいつまでも恋愛感情的なものと結びついているところが気持が悪いのだ。大人にとって、恋愛とはたいていの場合において、性愛を含むわけであり、つまり自分の娘ぐらいの年齢の女の子に性的な妄想を抱いているということになる。こういう趣味嗜好があること自体は仕方がないとしても、やはりこんなものが世間一般的に容認されるはずがない。

昔、男はある程度の年齢になれば、結婚して家庭を持つのが当り前であった。あえて結婚を選ばない者は、独身貴族などといわれ、複数の女性との逢瀬を楽しんだりしていた。結婚をしたいけれども出来ないという状況は、現在ほど多くはなかったのではないか。

当然、エロス的欲求は現実の恋愛や性生活に回収される。現実の性生活には、風俗営業店なども含まれる。

しかし、結婚や恋愛がしたいけれども出来ないという状況が現実に多い現在、行き場を失ったエロス的欲求は、どこか別の場所に捌け口を求める。

アイドルは職業であり、ファンは客である。歌やダンスやメディア露出といったサービスの対価として、客はおカネを払う。これに握手、トーク、現場での反応といったオプションが加えられる場合もあり、昨今、その比率は増えているように思える。

サービスによってエロス的欲求を満たすという意味で、風俗営業マンとアイドルとは似通った部分がある。風俗営業店で働くプロの女性のサークルを個人的な好意と誤解し、真剣に人間関係を結びたいと思った場合、それは愚かなことだと嘲笑される。たとえ、いかにその思いが純粋なものだったとしても、それは愚かで迷惑なものと見做される。

アイドルにおいても、基本的にそれは同じである。いわゆる認知だとか爆レスだとかいっても、それはプロとしてのサービスの一環であり、個人的な感情とはほとんど関係がない。しかし、営業サイドがこの辺りをあえて曖昧にしているということもあり、なかなか難しい問題である。

未来に夢や希望が抱きづらい時代だという。歳を重ねるほどに、残された時間は少くなる。

たとえばいま死んだとしても何の後悔もないというような毎日を過ごしているとするならば、こんなことを考える必要もない。

しかし、自分の暮らしが一番自分を傷つけているような日々を送り、かつそこに出口が無く、抜け出すための方法もエネルギーも尽きてしまったように感じた時、それでも全てに絶望して自ら死のうとする前に、それでもまだ何か生きるに値するものは無いだろうかと、探してみる。

恋愛や結婚、現実の女性に対してそのように思っている高齢者が、アイドルに出会う。アイドルは客であるファンを喜ばせるサービスをプロとしてやるので、それをたった一つの生きがいとする人がいてもいいだろう。

音楽や映画や旅行やペットがそのようなものになっている人たちは、世の中にたくさんいる。

しかし、それはアイドルのプロとしての仕事ぶりや、それを通して見聞き、感じることが出来た幻影を美しいと感じ、それで十分とするべきではないか。しかし、そうは行かないのであろう。

アイドルへの執着の目的がエロス的欲求の充足だとするならば、なぜに彼らはより直接的に欲求充足することが出来る、風俗営業店などに行かないのだろうか。

考えられる一つの可能性としては、そこに処女性という要素が重要視されているからではないか。

現実の恋愛経験において、侮辱や屈辱を受け続けた場合、自己防衛のために、そこから退行する。しかし、現実的にエロス的欲求というのはあるので、この矛盾を何とかするために、仮想世界への逃避という方法が浮上してくる。そのための環境は、ひじょうに整っている。

恋愛に長けた女性は、かつて自分を傷つけた現実の女性を連想させる。そこで、そういう経験は一切無く、ゆえに性愛においては弱者である自分も劣等感を覚えたりする必要がない。そこで処女信仰的な価値観が熟成される訳だ。

世間一般的な価値観から見ると、いかにもおぞましく恐ろしいと思えるのだが、アイドルの応援スレッドなどを覗いてみると、このような価値観があたかも常識のようにまかり通っていたりもする。

20歳もとうに過ぎた女性が、恋愛経験があるだけでビッチ呼ばわりされているのである。まあ、これは同じような趣味嗜好を持った人たちが集って好き勝手言い合うインターネットの掲示板なので、まあいい。

実際、アイドル産業というのは、こういう人たちが現実の女性とのデートやプレゼントではなく、アイドルのグッズや生写真や一緒に行くツアーなどにおカネを遣ってくれているから成り立っているところもある。

しかし、処女性を商品価値としたアイドルには賞味期限がある。処女性を主な価値としてアイドルにおカネを遣う客たちは、毎年より若いアイドルがデビューすれば、どんどんそちらへ流れていく。アイドルは生身の人間なので、毎年年齢を重ね、大人の魅力を身につけていく。処女性に最大の価値をおく客は、それを劣化と呼び、もうおカネを遣わなくなる。

そのような状況で、それでもアイドルとして、タレントとして、芸能人として生きていきたいと考えた場合、処女性に最大の価値をおく層とはまた別の、新たな客層を開拓する必要が生じる。

処女性に最大の価値をおく以外のごく一般的な価値観を持った客層というのは、おそらく処女性に最大の価値をおくような感覚をひじょうに気持が悪いものと捉えている可能性が高い。ゆえに、それまでと同じようにやっていたのでは上手くいかないのである。

たとえば、すごく可愛いアイドルがいたとして、そういうのに憧れる一般の女性は多い。しかし、処女性に最大の価値をおく客層に対してと同様のキャラクター設定や行動、言動をしていたのでは、おそらく支持は得られない。

80年代アイドルの中でも大成した松田聖子、中森明菜、小泉今日子らに処女性を求めるファンは、おそらく当時もほとんどいなかったのではないか。同性からの支持もあり、アイドルの枠を越えた活躍をするに至った。

処女性を求めるファンは、いずれ若い子に流れる。それでも付いてくる熱心なファンもいるとは思うのだが、その数は年々減少していくだろう。

高齢マジヲタの処女信奉が、アイドルの恋愛禁止圧力を強化したと思われる。その影響は、比較的若者が多いという印象も受ける、今回の平野綾の件への一部の反応を見ても感じるところである。

もっとシンプルに、キラキラ輝いてるから素敵で、そういうものに自分もなりたいと思ったから、少女たちはオーディションに応募した。

不遇な高齢者の処女信奉の生贄になるつもりなどなかったはずなのに。

まあ、いいけども。

2011年7月28日 (木)

いかんともしがたい。

女性アイドルは恋愛禁止ということになっているようだ。モーニング娘。やAKB48において、恋愛が発覚したことが原因でグループを脱退しなければいけないということがあった。

これはなぜかと考えるに、やはり恋愛をしていないというところに商品価値があるからだと思うのだ。恋愛をしていることが公になると売上が落ちるから、しないようにするようにと言われているのだろう。大変な仕事である。

しかし、そこまでしてやりたいからやっているのであれば、それは仕方がないことなのだろう。

恋愛というのはまあしない方が不自然だとは思うのだが、ここを抑えつけてやっているのだから、そのプロ根性には頭が下がる。

たとえば音楽家だとか作家だとかの場合は、本人の恋愛経験が人間としての深さにつながり、それで作品の質が上がれば売上にも貢献する。アイドルもある意味では表現者であるはずなのに、この部分では逆なのである。

つまりアイドルに求められているのはけして表現などではなく、恋愛をしていない若い女の子という素材の部分だけだということなのか。いや、バラエティー能力だとかパフォーマンス力も重要だという意見は多いだろうが、ならばなぜ恋愛をしてはいけないのだろうか。恋愛をした方がバラエティー能力もパフォーマンス力も上がるのではないか。

昔はアイドルといっても超一流をのぞいては数年でピークが過ぎ、20代前半ぐらいまでには引退したり大人のタレントにシフトチェンジしたものだ。そうなるともう恋愛をしても罪の意識を持つ必要がない。若い時期のほんの数年間と割り切れば、それもいいだろう。

しかし、最近ではそれ以上に年齢になっても恋愛禁止のアイドルでいなければならない場合もあるようで、本人がいい加減そういうのはもう勘弁と思っていたとしても、状況が許さなかったりする場合もある。これはひじょうに不幸なことである。

たとえば、ファンがなぜ自分が応援しているアイドルに恋愛をしてほしくないと思うかということを想像した場合、それは自分がそのアイドルに対して疑似恋愛感情を抱いているということが考えられ、そこでリアルな恋人発覚などとなった場合、その幻想は崩れ、裏切られたとかカネと時間を返せといった感情に支配されるのだろう。

そのアイドルのパフォーマンスが好きなだけならば、たとえばそれが自分が期待するものとズレてきたり、あるいは単に飽きたりした場合には、見たり聴いたりおカネをつかったりするのを止めればいいだけである。

そうではなくて、そのアイドルをもう一人の人間として好きになっているという場合がある。ブログにしろラジオにしろ、あくまでそのアイドルは仕事としてやっていて、そこからそのアイドルの人間としての本質を推測したり妄想したりするのは勝手だが、あくまで嗜みとしてやるべきであり、それを本物の人間関係と誤解してはいけない。

しかし、そのアイドルという職業とファンという客との関係を、あたかも本物の人間関係であるかのように誤解されることによって、より多くのカネが動くという現実はあるので、商売する側も、それは上手く利用してくる。だから、アイドルは恋愛をしてはいけない。

では、恋愛感情ばかりが人間関係なのかといえば、もちろんそんなことはない。恋愛感情というのは、自分が相手と一対一の関係になることを最終目的とするというか、自分が相手から一番だと見てもらいたい、承認してほしいという、きわめてエゴイスティックな欲求である場合が多い。アイドルが恋愛をしていないとかするつもりもないと言ったり、ファンの方々が恋人ですなどと言ったりしているのは、それをよく分かっているからであろう。同性愛アピールという手も、よくつかわれがちである。痛々しいといわざるをえない。

たとえばあるアイドルのことが、本当に人間として好きなのだという場合があったとする。だとすれば、相手の幸せを願うのが筋だと思うのだ。客として好きなだけならば、カネを払っているのだからもっとサービスを向上させろだとか、これ以上期待を裏切り続けるのならばもうカネは出さないぞとか言うこともあるとは思うのだが、人間として好きなのだということであれば、それは本物の人間関係にも近く、相手の喜びがそのまま自分の喜びでもあるというようなことである。

一般的に、大半の女性や男性は理想のパートナーに出会い、幸せな家庭を築きたいと願っている。ならば、自分が人間として本当に好きな人が恋愛をしているということは、素直に祝福できるはずである。とても喜ばしいことだと思える。

しかし、疑似恋愛的に好きな場合は、もちろんそんなことはない。

私に好きなアイドルがいたとしても、本人がそう望むのならば、理想のパートナーとめぐり会って、しあわせな家庭を築いてほしいと思う。それがきっかけでメディアから消えて、もう近況を知ることもできなくなったとしても、幸せを願いながら、思い出に感謝したい。アイドルではなく、主婦タレントとしてブログやラジオをやったりたまにテレビに出たりするならば、おそらく応援し続けるであろう。

水着が満載のDVDとか写真集とか、出ればおそらく買うのだろうが、別に出なくてもいいと思う。処女だとかレズビアンだとか言っている人たちとは、永遠に分かち合えぬ隔たりを感じる。

2011年7月23日 (土)

ウルフ。

北海道日本ハムファイターズには、ブライアン・ウルフという投手がいる。昨年入団し、中継ぎや抑えで登板していたのだが、なかなか結果を残せなかった。これはシーズンいっぱいで帰国かと思われたのだが、途中から先発に転向したところ、どんどん勝利を重ねていった。今シーズンは開幕から先発ローテーションに入り、ダルビッシュ、武田勝、ケッペルと共に、チームの躍進に大いに貢献している。

かつての横綱千代の富士はウルフというニックネームで呼ばれていたが、ビートたけしのオールナイトニッポンの村田先生のコーナーにおいて、演歌の大御所、村田英雄がこれをゴルフ千代の富士と言い間違えていたというエピソードは、どうも作り話の可能性が高そうである。

完全に余談だが、ウルフとは日本語で狼の意味だが、ある一部の人達の間では、インターネットの雑談系掲示板を指す場合がある。

全盛期のモーニング娘。に全く興味がなかった私が、暇つぶしに見ていたのがこの掲示板であり、「亀井絵里のいやらしくてだらしない体」とかいうスレッドを気に入っていた。もしも道重さゆみがコンビニの店長だったらというコンセプトのスレッドも、ひじょうに面白かった。

私が以前やっていたブログを止めた理由の一つは、そこに書き込んでいた一部の人達に対してブチ切れたからなのだが、それ以上に、アイドルアンチの生態を探ろうと、複数の人格を使い分けて、色々なスレッドに潜入したりしているうちに、すっかり自分自身もアンチ的メンタリティーを獲得してしまうという、いかんともしがたい状態に陥り、やっていても面白くも何ともなかったからである。

道重さゆみのブログに高橋愛が写っているだけで気分が悪くなるという、常人では理解しがたい末期症状となっていた。現在、私にとって、高橋愛とはかなり笑わせてくれて、朗らかな気分にさせてくれる存在である。

iPhoneからBB2Cのアプリを削除したのが良かった。たまにスレッドを見ると、熱心なハロー!プロジェクトファンと見られる人々が、何の脈絡もなくAKB48の悪口を書いていて、気分が悪くなり、それでまた腹を立てるということの連続であった。

好き嫌いはあるとして、同じジャンルで、より成功しているものに対して悪口を叩くのは、どうしても妬みや僻みに思えてしまい、そういうのはまあ居酒屋などに行けば日々繰り広げられている類の物言いなのだが、私が思っていた道重さゆみ的なものとは、そういうのではなかったはずで、見習うべきは見習って、自信を持つところは持ってという、そのようなものだった訳で、まあそれすらも私が勝手にそうあって欲しいと願ったものに過ぎず、アイドルを応援するなんていうことは、そもそもそんな大それたことではないのだろう。

いろいろな経緯があり、まあ結局、道重さゆみほどに私の魂を震わせてくれる存在は無いわけで、掲示板の書き込みごときでその楽しみをみすみす失うというのはじつにくだらんと思い、もう読むのを止めて、ブログも復活させた。

その過程で、ハロプロもAKBもどっちも好きで、バンドのドラムもやっているという30歳代後半の人と偶然出会う機会もあり、じつは私の周囲にはアイドルヲタクのような人は、俄かのAKB系以外はほとんどいなかったので、まあ、リアルはこんなものだよなと、掲示板でのAKB対ハロプロみたいな構図にも、それほど捉われなくなった。

そんな感じで気分よくやっていたのだが、やはり好きなのである。

結局、iPhoneにBB2Cを再ダウンロードして、また見ている。見はじめたら止まらない。AKBの悪口を書き込む人や、逆にAKBを使って道重さゆみやハロプロメンバーのことを貶めることを書いている人などもいるが、これも道重さゆみが複雑かつ多面的な魅力を持つ存在を有しているがゆえなのだろうと、楽しんで見られるようになった。

一見、アンチ的な書き込みに見えるものも、その根底には歪んだ愛情があったりもする。道重さゆみについて、様々な視点から語られた言葉の数々から、新しく見えてくるものも少なくない。やはり、この掲示板は面白い。

だから、毎日毎日自演で書き込んでいるとか、ありもしないことを書かれても、読むことを止められないのだ。

2011年7月22日 (金)

無垢の終り。

中村とうよう氏が亡くなったらしい。遺書のような文章を遺し、親しい人達には別れの手紙も送り、マンションの8階から飛び降りたとのことだ。享年79歳。冥福を祈る。

中村とうようが編集長をしていた「ミュージック・マガジン」は、高校生の頃から20代半ばぐらいまで読んでいた。マルコム・マクラレンの「俺はマルコムだ!」をつい一昨日も聴いていたけれども、この雑誌で中村とうようが10点を付けていなければ、出会っていなかったかもしれない。あと、キッド・クレオール&ザ・ココナッツとか。

地方都市に暮らしていて、現在のようにインターネットで視聴などもできず、FM局もまだNHKしかなかった頃、音楽雑誌は、どのレコードを買うかを判断するのに、欠かせないメディアであった。

「ロッキング・オン」とか「宝島」とか「ビックリハウス」とか「よい子の歌謡曲」の方がずっと好きだったけれども、「ミュージック・マガジン」は、ロックやR&Bだけではなく、レゲエやラテンやアフロポップやジャズなど、様々なジャンルを扱っていて、その半分以上がよく知らないアーティストや作品についてだったけれども、なんだかとてもお得な感じがしたし、まだ聴いたことのない音楽の大海原への扉のようにも思えた。

編集長の中村とうようは、好きな音楽やアーティストは大絶賛し、嫌いなものはこき下ろすという批評スタイルを取っていた。そういうものだと思って読んではいたのだが、パブリック・エネミーの2枚目が出た時に、クロスレビューで0点を付けて、ラップそのものが黒人音楽にとって悪であるというようなことを書いていた時に、これはもう本格的に合わないな、と思った。

他にも、私が愛好していたUKニュー・ウェーヴ系については、だいたい暗いからという理由で、悪く書かれていた。そこがいいんじゃん。あと、トム・ウェイツとかも、声が嫌いという理由で酷評されていた。そこがいいんじゃん。

この雑誌を本格的に読まなくなったのは、ここで高評価されているような音楽を聴いて、さも自分は良質な音楽を分かっているような気になったとしても、それによって私の私生活が良くなるようなことは一切なかったからである。

その頃、すごく可愛くて付き合いたいなと思える女の子が身近にいて、フリッパーズ・ギターを聴いて、それからネオアコとかギターポップとかソフトロックとかサントラにハマって、アニエスb.を来て、週末にはたまにDJをしている、みたいなとても分かりやすい子だった。

一度、休憩時間にコーヒーをおごったら、お礼にオリジナルのカセットを作ってくれて、インデックスに電話番号も書いてあった。これは本格的にこの子にモテるしかないだろうと思い、それからUKインディーズとかギターポップとかばかり聴くようになった。

「ミュージック・マガジン」なんていくら読んでいてもモテないと思ったから、買うのをやめた。当時働いていたCDショップの店員達は、この雑誌をバイブルのように崇めていた。私や同様の趣味を持った女の子などは、ティーンエイジ・ファンクラブだとかライドだとかを気に入っていて、ニルヴァーナの「ネヴァーマインド」がチャートを駆け上がっていく様に、興奮していた。しかし、「ミュージック・マガジン」をバイブルと崇めている社員たちにはバカにされていた。

UKインディーがかかるクラブやライヴ会場、渋谷宇田川町のZESTの紫色のレコード袋を小脇に抱えたような女の子にモテたくてモテたくて仕方がなかったので、イギリスで発行され、英語で書かれているNMEを毎週読むようになり、そこで紹介されているレコードを、西新宿のラフトレードショップやヴィニールに買いに行ったりするようになった。

どんどん実力がついていって、数ヶ月後には、ベレー帽とボーダーのシャツを着けた女子大生と、みなと図書館に増井修のロック講座を聴きにいくぐらいにまで、成長した。私は努力家であり、やればできる子なのである。何だそれは。

「ミュージック・マガジン」では、英国の新しいバンドなどが出てくると、このパターンは昔、別のバンドがやっているというように、サウンドとしての斬新さによってのみ、評価する場合が多いことに気がついた。ワールド・ミュージックなどは確かにサウンドとして新鮮ので、それはそれで面白いのだが、だからといって、自分たちが求める理想のスタイルにフィットしているかというと、そういうわけでもなかった。それはまあ、モテたい方面の人達にあまりモテないということに過ぎないのだが。

ポップ音楽とは若者の音楽であり、同時代感覚こそが重要だと思う。後追いで聴いて、これは名曲だと思える作品は多々あるが、その時に聴いてこそ感じられるものというのもあるだろう。時代背景だとかファッションとかモードとか。それを抜きにして論じることは、音楽を純粋に批評することにおいては正しいのかもしれないが、ポップを論じる上においては、片手落ちなような気がする。

数ヶ月前に、書店で久しぶりに「ミュージック・マガジン」を立ち読みしたら、当時たいして評価していなかったと思うスウェードの旧作リイシューについて、数ページの特集を組んでいた。もちろん買わなかった。

あと、昨年だったか、80年代のクロスレビューを一冊にまとめた本が出ていて、これは買ったのだが、とても懐かしく思えたと同時に、随分と乱暴な批評が許されていたのだな、とも思った。

私がじつはポップ音楽を結構好きだということがバレると、音楽談義をしたがる人がたまにいるのだが、ポップ音楽を基本的に若者の音楽であると考え、そのような目的で聴いている私は、「ミュージック・マガジン」的というか、純音楽的な音楽ファンとは、ある部分から話が噛み合わなくなる。アーティストやそのファンに対する敬意が無いというか、ただ自分が合わなくて分からないだけなのに、あたかもそれが劣っているかのような決めつけや上から目線があり、音楽ってもっと普通に自分が良いと思うものを楽しんでいればいいんじゃねえの、などと思ってしまう。

という訳で、「ミュージック・マガジン」的なものがどちらかというと嫌いな私だが、ではなぜに中村とうようの死をさびしく思うのか。おそらく、潜在意識ではとても強く意識していたのだろう。あんな好き勝手言っているオッサンはそうはいないし、どこかでリスペクトしていたところもある。何か、一つの時代が終った感が思いのほか強くて、自分でも驚いている。

おつかれさまでした。

善悪の彼岸。

将来は本気でアイドルと付き合いたいと思っていたことがあるのだが、それは十代の頃のことだ。

その頃なりたかったものは、お笑い芸人、放送作家、小説家、シンガーソングライター、音楽評論家、コピーライターとかだったけれども、いずれもアイドルと知り合いになって、付き合えるんじゃないかという思いがあった、おそらく。

しかし、大学生ぐらいになるとそんなこともあまり思わなくなり、普通にアルバイト先や学校や趣味で知り合った女の子といかに付き合うかということを、メインに考えるようになった。アイドルに関しては、ちょうどその時期にトラウマ的な事件が起り、それまでのようなスタンスで無邪気に応援する気分ではなくなったということもある。

いずれにせよ、その頃、アイドルといえば中高生ぐらいの男子が夢中になるものであり、大学のアイドル研究会のようなものもあったけれども、かなり特殊なことをやっているという印象があった。

たとえばアイドルだとかミュージシャン、お笑い芸人でも役者でもいいのだが、まずメディアを通じて知って、好きになる場合がほとんどであろう。それが昂じた場合には、もう一歩踏み出した行動に出たくなる。ファンレターを送ってみるとか、コンサートや舞台に足を運ぶといった段階である。この時点では、対象をまだメディアの向こうの存在とは認識できているはずである。

これがさらに進行すると、その人の作品だとかパフォーマンスというよりは、人そのものに興味が出てくる。生い立ちだとか私生活だとかが知りたくなる。「ロッキングオンJAPAN」の20000字インタヴューなどは、このような欲求に応えたものである。

普通はまあせいぜいここまでであり、私のような旧い人間にとっては、これ以上の深入りというのは、まず現実的に不可能だし、もし可能な方法があったとしたところで、そこまでやるとちょっとした問題行動なのではないか、と思ってしまうのだ。

私がまだ北海道の実家に住んでいた頃、アイドル評論誌のようなものを作って、全国の読者に送ったりしていたのだが、ある埼玉県出身のアイドルのことが気になると書いたところ、埼玉県の読者から、そのアイドルの実家の外観と表札の写真が送られてきた。

おそらく私が喜ぶと思って送ってくれたのだろうが、いや、そういうことじゃないんだがなと思うと同時に、ちょっと怖いなと思ったりもした。

アイドルばかりではなく、洋楽も聴いていたのだが、作品が好きなだけであり、アーティストの自伝を読んだり、たとえばイギリスのビートルズゆかりの地を巡礼したりする人達の気持というのは、あまりよく分からなかった。

しかし、それから何年も経ち、まさかまたアイドルに興味を持つことなどもうないだろうと思っていたにもかかわらず、道重さゆみを発見した頃、この人物を育んだ山口県とはいったいどのような場所なのだろうと純粋に気になり、なるほど、そういうことなのかと理解した次第である。

さて、話は大いに脱線しまくっているわけだが、アイドルには元々疑似恋愛的な要素が強く、それが商売になっていたわけだが、かつては主なファン層が中学生、高校生とかであり、それほどおカネも持っていなかった。

ところが今や、会いに行けるアイドルの大成功もあり、直接的会って握手をしたりお話をしたりする販売促進活動がどんどん増え、おカネを出せば出すほどその機会も増えるということで、そこに大量のおカネを遣う若者や、高齢だが結婚もしていなく恋人もいないために、そういうものに遣わなくて済むおカネを、かなりここに費やすというパターンが、かつてに較べると、ひじょうに増えている。

まあ、これでファンが満足し、事務所が潤い、アイドルの収入も増えるのならば、皆が幸せである。

握手や会話を重ねるうちに、アイドルに顔を覚えてもらう、いわゆる認知というのがある。認知されるためにたくさんおカネを遣ったり、自分なりにいろいろと努力をしたりもする。これらはあくまで、職業としてのアイドルを全うするプロと、客の関係に過ぎない。

しかしそれをあたかも人間関係であるかのように誤解させやすいシステムが作動していて、それは緻密なマーケティングに基づいて、意図的に仕組まれたものなのであろう。

よくアイドルに興味がない人達や、他事務所のアイドルやグループのファンなどが、AKB48の商法を批判するのはこのような部分についてなのだろうが、割とお祭り感覚だったり、若気の至りだったりといった健全なノリを感じることも多く、そんなにも目くじらを立てることだろうかと思う。

AKB48関連以外のアイドルやグループが追随するかのような販売促進活動を行っていたり、倉木麻衣やCHEMISTRYといった非アイドル系のアーティストですら、ハイタッチ会なるものを販売促進に取り入れている昨今である。

深刻なのは、やはりこのプロと客と廼関係を、本当の人間関係だと誤解してしまうケースである。アイドルという存在に、疑似恋愛的な要素が強いとすれば、そこで本当の人間関係とは、リアルな恋愛感情のことである。これはマズイことになったのだ。

リアルな恋愛感情というのは、対象と一対一の関係になるか、あきらめて興味が無くなるか、いずれかの結末を迎えない限り、なかなか終わらない。そして、プロであるアイドルは、客であるファンに対して、なかなかあきらめろとは言えないものである。

いや、別に付き合いたいとは思っていないが、そのアイドルに、自分が思う通りであって欲しいと願い、そこから外れることに対して、そのアイドルのためを思ってダメ出しをしているのだ、などという複雑なケースもあるが、これなどもプロと客ということで考えると、顧客からの建設的なご意見と理不尽なクレームとの線引きをどこでするべきかという話になってくる。

しかし、これをプロと客との関係ではなく、人間関係であると誤解している者にとっては、よく分からない。

ちなみに、日本では「お客様は神様です」よいう言葉がポピュラーだが、そもそもサービスとは、サービスする側とされる側とが、神の下で出会えたかとに感謝するという概念である。だから、西洋人には、レジで会計が終わった後で、店員にありがとうと言う客が多い。

アイドルとファンとの関係もこのようなものであるのが幸福だとは思うのだが、どうもそうばかりはいかないようだ。

かつて、岡田奈々の家に暴漢が押し入ったり、松田聖子がコンサート中に棒のような物で殴られたり、西村知美の姉が誘拐されたり、ジョン・レノンがマーク・チャップマンに射殺されたりという事件があった。

それぞれの事件の詳細についてはあまりよく知らないし、犯人がファンだったのかそうではなかったのかも定かではない。しかし、ここには(ジョン・レノンを含めた広い意味での)アイドルという存在が生み出す幻想と、それが引き起こす不幸という共通点を感じる。

アイドルに会いに行くことが現在ほど容易ではなかった過去に、このような事件が起きている。現在は、会いに行けるアイドルの時代に即した危機管理がきちんと行われているから、こういう事件が起こらないのだろうか。

プロと客との関係を人間関係だと誤解して、膨大な時間とカネとエネルギーを費し、ふと気づいた時に、裏切られたとか、時間とカネとエネルギーを返せという気分になる。好きで勝手に遣っていただけなのに。プロとして仕事を頑張っていただけなのに。

希薄な人間関係を埋め合わせるためにアイドルを利用すると、必ずこういうことになる。関係妄想は成人してから発症する。

人間を好きになる気持ち、その情熱は素晴らしい。しかし、あくまでプロと客とのビジネスの関係だという、その大前提は持った上で、騙されたふりをしたり、垣間見える人間生を愛でたりする。そのような大人の嗜みならば安全なのだが、そこのところのリミッターを外すようなシステムが意図的に仕組まれてもいるから。しかし、それはアイドル本人が作ったものではない。

所詮自由に遣えるおカネも時間も限られていて、未来にはちゃんとしたリアルの人間関係なり恋愛をする前提で、一時的なノリでアイドルにハマっている若者ならばまだ良いのだが、いろいろとあきらめて捨てて、長年の情念が結晶化してアイドルに向っている場合はひじょうに悩ましい。

だからどうなのだと問われれば結論は無いし、お前が言うなと言われれば、あいすみませんというしかない気分ではあるのだが。

2011年7月21日 (木)

関係妄想。

ジョン・レノン暗殺事件の真相には諸説あるわけだが、一般的には熱狂的なファンがその幻想を守るために、銃を撃ち、命を奪ったとされているようだ。

犯人のマーク・チャップマンは、プライドが高く、誇大妄想癖があったというが、現実社会では全く認められることがなく、そこから逃れるために、ジョン・レノンや小説「ライ麦畑でつかまえて」の主人公、ホールデンを自分と同一視していたといわれている。

AKB48が成功したのは、会いにいけるアイドルというコンセプトの勝利だということが、よく言われる。そして、他のアイドルグループも、このような会いにいけるという部分をより重要視してきているような気がする。

私の中学高校時代というのは空前のアイドルブームであったが、アイドルが来ることなど年に数回しかない地方都市に住んでいたということもあり、アイドルとはあくまでメディアを通して見る存在であった。ブログなども無かったので、芸能雑誌に載っているスケジュール表を見て、いま何をしているのだろうなどという妄想をふくらませたりしていたものである。

会いに行けるアイドル全盛の現在は、認知されているとかされていないといとかがファンにとって重要になり、これはかつては無かった概念である。親衛隊に入ると顔を覚えてもらえるとかいう話を聞いたこともあったが、それは私などにとっては都市伝説に近いものであった。

ブログを頻繁に更新するアイドルなどは、ファンにとってとても嬉しいものだが、それによって、あたかも私生活をも監視しているかのような幻想を持つ厄介なファンを生む原因にもなる。

アイドルとは職業であり、商売であるため、やはり利益をより多く生んだ方がいい。どの商売においてもそうであるように、迷惑をかけずにおカネをたくさん使ってくれる客が一番ありがたい。そして、最もいらないのがおカネも使わずに迷惑だけかける客である。これはハッキリしている。しかし、迷惑をかけるがおカネもたくさん使ってくれる客というのも存在し、ここが悩ましいところである。

そこで迷惑についてのあるガイドラインを設けるわけだが、それによってその客がいなくなれば、当然、その分の売上は減る。しかし、その客の分の売上を減らしてでも、そのガイドラインを徹底した方が、全体での利益は上がるという判断が下されているので、そのようになっているのだろう。

関係妄想というのは、簡単にいうならば、他人の言動や行動、しぐさや表情などが、自分と関係すると思えてしまうという妄想のことである。これは病気なので、治療するのが望ましい。

2011年7月20日 (水)

夏ダカラこうなった。

道重さゆみのブログでスマイレージの「有頂天LOVE」という曲のことが何度も何度も書かれていたので、おそらくよく分からないとは思うのだが、念のため見てみようかと思い、動画を検索して見はじめたのだが、やはりよく分からなかった。

ただ、道重さゆみが好きなのはこういうやつなのか、という参考にはなった。

道重さゆみは昔はBerryz工房がすごく好きだと言っていたが、それから℃-uteとか真野恵里菜になって、現在はスマイレージのようだ。まあ、事務所の後輩のプロモーション的な部分もあるのだろうが、おそらくその時は本気で特にすごく好きなのだろう。

よくアイドルファンの人で、応援する人がコロコロ変わる人がいるが、パターンはいろいろあるものの、よりフレッシュなものに流れているような気がする。

道重さゆみのお気に入りの変遷を見ると、それに近いものを感じたりもする。ゆえに、ファンというのはよりフレッシュなものに流れるようになっているということを理解していて、だから誕生日記念Tシャツに「若い子には流れません」などと書く発想が生まれてくるのだろう。

かくいう私も、現在もインターネット上に残っているログでは、道重さゆみからAKB48の渡辺麻友あたりに流れたことになっていて、ただ若い子が好きなだけで、道重さゆみに飽きてよりフレッシュな子を好きにだっただけなのをグダグダと言い訳している、などということになっている。

先日、「ヤングタウン土曜日」において、道重さゆみが後輩を可愛がっているのになかなかなついてくれないという話題があった。道重さゆみは実際の話を多少盛ったり脚色したりして面白おかしくもできる子なのだが、この件に関しては、一緒に番組に出ていた高橋愛の発言を聞いても、ほぼ現実に即していると思われる。

たとえば、後輩メンバーのことを、ファンがアイドルを見ているような目線で見て、接してくる先輩がいたとしたならば、それはなかなか難しいような気がする。しかし、道重さゆみはおそらく小さい女の子が可愛くて好きなだけであり、この本能は抑えきれず、そこにジレンマが生じる。これもまた、道重さゆみの葛藤である。

スマイレージとは、おそらくこの小さい女の子を見て可愛いと思うという感性をターゲットとして、商品化されたグループではないか、などと推測するのだが、私などはそのような感性がいちじるしく欠けているために、子供ですやんとしか思えず、かつ、よく分からんという感想しか出て来ない。

「有頂天LOVE」という曲も、ひじょうにノリノリで楽しく、おそらくこの小さい女の子を見て可愛いと思う素直な感性さえあれば、とても楽しめるのだと思う。しかし、私のような汚れまくった心を持つ者には、それがよく分からない。

セーラー服とかミニスカートとかを無邪気に着たり穿いたりして歌い踊っているのを、無邪気に可愛いなと思って見るのが正しいとは思うのだが、私のような心が汚れまくった者にとっては、そのようなものに反応してしまうそのこと自体が、何やらとても反道徳的なものなのではないか、というリミッターが作動してしまうのだ。まあ、このあたりのグレイゾーンを意図的に利用し、また、その彼方にある感性を至福とする趣味というのもあり、それで商売が成立していたりもするのだろうが、どうもそっちへ行ってしまうことのリスクがあまりに大きすぎると尻込みしてしまう、チキン海峡冬景色である。

つまり、私はハロプロには向いていないんだろうなと思う。PV冒頭のミラーボールとか、イントロぐらいはカッコいいと思い、もしやこれは好きになれるのではないかと思ったのだが、よく分からないテンションの高い男の「ワッフー!」とかいうかけ声で、これはやはり恥ずかしいのではないかと思ってしまった。ここがやはり分かれ目なのだろう。だが、これの良さが分かる人というのは、きっと純粋なきれいな心をしているね。

私などは先週の「ヤングタウン土曜日」に出ていた吉川友とかの方がずっと好きなのである。あの放送を聴いて、アップフロントにはこんな面白い子がいたのかと驚いたのだが、どうやらハロプロファンにはあまり人気がないようだと聞いて、なるほどねという感じがした。

そんな孤独感を抱えつつ、同じく道重さゆみがブログで宣伝していたBouno!の「夏ダカラ!」という曲も検索してみた。ただし、こちらはあまり熱く語っているという感じもなく、気に入ってはいるが、とりあえず宣伝しておきました的な雰囲気がある。どうせこれもよく分からないんだろうなと思い、再生してみたところ、いや、これはすごく良いんじゃないかと思ってしまった。

ところで、嗣永桃子と夏焼雅は分かるのだが、この真ん中の美人さんは誰だっけと思い、わざわざWikipediaでBuono!を調べてもみたのだが、なんと、℃-uteの鈴木愛理ではないか。しばらく見ないうちにこんな美人さんになっていたとは。きれいだとは思うのだが、別にかつてアイドルを見てときめいたみたいな感覚があるかといえば、そんなこともなく、まあそれが健全な成人男性ということでそれはそれでいいのだが、少しさびしく思えたりもしたのだ。スマイレージはただの子供にしか見えないし、まあ、もうこういうのは分からないのだろうなとか、しかしまあそういうものなのだろう、などと思いながら、しかし、この曲は普通に好きだぞと思った。「ブルーブルーブルースカイ、ブルーブルーサンシャイン」のところとか、胸がキュンキュンする。昔のガールグループポップスの伝統を受け継ぐかのようなエバーグリーンな何かを感じる。

そして、嗣永桃子がすごく可愛い。

いや、キャクターとかは昔から好きだったし、楽屋で道重さゆみに今後の方向性のことで相談していたというエピソードだとか、知らないうちに大学生になっていたことなどで、潜在的好感度は上がっていたのだ。しかし、ここしばらくは積極的にハロプロ関連の映像を見るようなこともなく、自分の中では存在感もすっかり薄れていたのだ。

しかし、このPVの映像では、いい感じに大人度が増していて、ビジュアル、声、動きの相乗効果が神がかったことになっている。いや、でも若い子には流れんよ。

そして、この曲はiTMSで購入した。わずか数百円とはいえ、道重さゆみのブログがハロプロの売上に貢献した瞬間である。

私でもまだまだハロプロの作品を好きになれるのだなと思い、クレジットを見たところ、この曲はつんく作品ではなかったのだな、というオチ。

夏ダカラ!Music夏ダカラ!

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2011年7月15日 (金)

台湾ラーメンなど。

夏の暑い日が続くと、ついつい冷麺系ばかり食べてしまいがちである。

しかし、夏だからこそあえて辛いものを食べて発汗の快感を得るというのも、これはまたアリである。

私は確か5歳か6歳ぐらいの頃に、真夏に旭山動物園で熱いラーメンを食べ、その時に初めてそう思った。

時は流れ、ある日曜日のお昼時に「ハロモニ@」という番組を見ていると、ウサギのコスプレのようなものをした道重さゆみが、暑い日にあえて辛いものをヒーヒー言いながら食べるのが好き、などと言っていて、赤チン国王こと平成ノブシコブシ吉村崇から「ヒーヒーはやめなさい」などと注意されたりしていた。

電車の中で、GREEの道重さゆみブログを開くと、麻婆豆腐どんぶりを食べたことが書かれていた。私が初めて「今夜もうさちゃんピース」を聴いたのは、2007年の3月ぐらいのことだが、家にあったラジオでダイヤルをCBCラジオに合わせた。しかし、サービスエリア圏外である東京ではクリアな音声で聴くことはできず、強くなったり弱くなったりする雑音の彼方から、道重さゆみの声を探るようにして聴いていた。断片的に話が聴こえるのだが、全体的にはほぼ理解できない。そんな中でも、麻婆丼という単語は、はっきりと聴き取ることができた。

当時は、とにかくめちゃくちゃ食べたという話をテンション高めにしていることが多かったように思える。亀井絵里との間でハニートーストがすごくブレイクしていたような印象がある。

「今夜もうさちゃんピース」を放送されているその時間にクリアな音声で聴くには、やはりサービスエリア圏外にいては無理である。ということで、いつかちゃんと放送されている時間にリアルタイムで聴いてみたいと思い、それだけの目的のために、わざわざ名古屋まで行ったことがある。

せっかくなので、CBCラジオの本社前に携帯ラジオを持っていって、受信したりもした。その週は田中れいなとリンリンがゲスト出演していた。リンリンがトマトのよく分からない小噺をしていたのは、その翌週のことだった。

名古屋には弟が就職した時と結婚した時に行ったことがあったが、観光は一切しなかった。当時は観光とか全く興味がなかったのだ。この時にはついでにCBC本社に向かって、「今夜もうさちゃんピース」が末永く続くようにお願いもしたのだが、その翌年、お正月に放送された「小学生クイズ」で道重さゆみが大活躍した。それ以降、モーニング娘。の他のメンバーと離れて、一人でバラエティー番組などに出る機会が増えたわけだが、当時の道重さゆみファンにとっては大事件であった。

「小学生クイズ」の後に道重さゆみが一人でテレビに出たのは、「バグルー!!」という東海地区ローカルの深夜番組であり、これを見るためにまたわざわざ名古屋まで行き、ホテルに泊った。翌月に、これまた東海地区ローカルの深夜番組で、オリエンタルラジオやほっしゃん。などが出ている番組にも出演することを知り、それでまた名古屋まで行った。

せっかくなので観光もしておこうということで、名古屋名物のひつまぶしだとか味噌煮込みうどんだとか味噌かつだとかを食べに行ったり、名古屋城などに行ったりもした。そんな中で、まさに暑い日にあえてヒーヒー言いながら食べてみたいと思えるものがあった。それが、台湾ラーメンである。

名古屋の味仙というお店が発祥とのことなのだが、現在、名古屋の多くのラーメン店に、このメニューが存在する。ラーメンの上に大量の挽き肉やニラや唐辛子がのっかっている。このビジュアルだけでも、相当インパクトがあるのだが、食べるとこれがひじょうに辛く、汗がどーっと出てくるのだ。

味仙で台湾ラーメンを注文すると、まず花瓶のような容器に入った大量の水が運ばれてくる。これを見てどんだけ辛いんだよと思うわけだが、実際のところ、相当に辛い。しかし、ただやみくもに辛いだけかというとけしてそうではなく、ベースが鶏ガラの醤油スープであるため、辛さの向こう側に、奥深い美味しさがある。

ちなみに、コンビニエンスストアのサンクスでは、この味仙が監修したカップの台湾ラーメンが売っていたりいなかったりする。しかし、作っているのはなぜか北海道のメーカーだったりする。試しに買って食べてみたのだが、カップ麺にしては、まあ再現できている方ではないかと思った。あと、寿がきやからもカップの台湾ラーメンが発売されているようなのだが、これは食べたことがない。

ちなみに、台湾ラーメンとは、開発した味仙の店主が台湾人だったからそういうネーミングになっただけであり、台湾にはこのような激辛のラーメンというのは存在しないらしい。

私が上京したばかりの頃は、なぜだか激辛ブームであった。味仙の台湾ラーメンは1970年代からあったメニューらしいのだが、この80年代の激辛ブームを機に、一気に有名になったらしい。激辛のカップ麺や即席カレーやスナック菓子が多数発売されていた。私は湖池屋のカラムーチョをしょっちゅう買って、大橋荘で食べていたが、袋に書かれた「こんなに辛くてインカ帝国」というコピーが、イカしていると思った。その頃にダジャレンボー将軍のコーナーがあったならば、どう判定されていただろうか。

ちょうどその頃におニャン子クラブのブームがあったが、この勢いにのって、その男の子版もデビューさせようという企画があり、その名も息っ子クラブというのが結成された。おニャン子クラブ同様、秋元康が作詞を担当したりもしていたが、大きな人気を得るには至らず、数ヶ月間の活動で、解散した。2枚目にして最後のシングルのタイトルは、「ちょっと辛いあいつ」であり、この辺りにも激辛ブームの片鱗を見ることができる。息っ子クラブのオーディションにはデビュー前の織田裕二も合格していたが、直前で辞退したという話もある。

それにしても、道重さゆみの誕生日を記念して制作されたという、「道重一筋」のTシャツは素晴らしい。これは芸術である。けして一筋などではない私には着る資格はないし、何より妻と一緒に暮らしている者がワードローブに何気なく加えるには、あまりにハードルが高い逸品といえよう。ファッションショーなどを見ていると、カッコいいのだが街で普通に着るのはどうかと思えるような前衛的なものなどがあるが、これもその一種なのかもしれない。

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2011年7月14日 (木)

とうきびモナカとブラックモンブラン。

多摩地区のとあるイトーヨーカドーでご当地アイスクリームフェアのようなものをやっているたので什器の中をのぞいてみたところ、これまで見たことのないとうきびモナカがあった。メーカーも北海道内の聞いたことのないところだった。いろいろ各社から製造販売されているのだろうか。

とうきびモナカとは、とうきびの形をしたモナカの中に、これまたとうきび味のアイスクリームが入っているというものだ。北海道でとうきびといえばスイートコーンであり、それはとても甘い。このとうきびモナカのアイスクリームは、スイートコーンっぽい香ばしいフレーバーである。

子供の頃、とうきびモナカは北海道のスーパーなどでいつでも買えた記憶がある。しかし、年柄年中いつでも食べたいと思って買ったり買ってもらったりしていた訳ではないので、その記憶も定かではない。

昨年、北海道のご当地食品を見直してみるムーブメントが自分に起こり、月寒あんぱんだとかビタミンカステラだとかオブラートに包まれたきびだんごとかを、札幌駅構内のどさんこプラザで買ったりした。その時、とうきびモナカは食べそびれてしまった。今年の2月に札幌在住の妹に聞いてみると、最近は見た記憶がないしもう売っていないのではないかということだった。いや、そんなことはないだろうと思い、インターネットで調べてみたところ、何やら複雑なことになっているらしかった。

元々、とうきびモナカは雪印から発売されていたらしいのだが、雪印がアイス事業から撤退し、それ以降、雪印のアイス部門から発売されていた商品の一部は、ロッテから発売されていたらしい。しかし、とうきびモナカのパッケージや雪印ブランドのイメージはとても強かったため、しばらくはロッテから発売しているにもかかわらず、パッケージには雪印とも記載されていたりしていたようである。

今年、北海道を訪れた時に、私はついに念願のとうきびアイスと再会することができた。しかも、お風呂の湯船につかりながら食べるという、最も贅沢な食べ方も実行することができた。また野望に一歩近づいた。そのパッケージから雪印の文字は、もうすでに消えていた。

そして、パッケージ裏面を見ると、製造は株式会社ダイマル乳品という会社がやっていて、住所は苫前郡羽幌町であった。私が5~6歳ぐらいの時に住んでいた日本海沿岸の小さな町である。

とうきびモナカの味覚は、瞬時にして、私に北海道での夏の記憶を呼びさましてくれた。

北海道がとうきびモナカならば、九州はブラックモンブランらしい。

初めて見たのはローソンの九州フェアのようなものだったが、佐賀県出身の若い衆がかなりエキサイトして思い入れを語っていたので、私もためしに1本買ってみた。

見た目はチョコレートにクランチ的なものがトッピングしてある、よくありがちな棒つきアイスクリームであり、中はバニラのアイスクリームなのだが、これが思ったよりもたいへん甘く、とても美味しかった。九州の子供たちの間ではかなり人気があるということを聞いた。

道重さゆみの研究のためにフィールドワークをしていた私は、あまりに暑い真夏の夕方に、空港通りにあるローソンに入った。アイスキャンディーでも食べようかと思い、什器の中を見ると、なんとブラックモンブランが売っているではないか。

確か九州でしか売られていないと聞いていたのだが、そのローソンがあったのは山口県であった。

東京などから見ると、山口県は中部地方であるがゆえ、文化圏的には広島県や岡山県と同じなのではないかと思うのだが、現地で見てみると、もしかすると場所によっては福岡県などの方がより近しいのではないかと思うことがある。

たとえば、地元有名チェーンの一久をはじめ、宇部市でラーメンといえば、とんこつスープである。ちなみに、道重さゆみはとんこつスープという単語をただ音として覚えていて、豚の骨からとっているがゆえに豚骨(とんこつ)なのだと知って、衝撃を受けたらしい。

書店やコンビニエンスストアなどで、家族やカップル向けのドライブ案内ムックのようなものが売られているが、福岡県や九州方面のものが目立っていたような気がする。また、山口県には民放の放送局が少なく、「笑っていいとも」が午後から録画で放送されていたり、複数の在京キー局の番組が1つのチャンネルで流れていたりするが、じつは宇部市内で福岡県の放送局を視聴することは容易である。

山口県と福岡県とは関門トンネルで結ばれているが、地下には人道というのがあり、歩いて渡ることができる。下関から門司まで、約20分ぐらい歩けば着く。門司港はレトロな駅舎や風景などで、観光地としても人気だが、発祥の地だという焼カレーの店が多数ある他に、山口県名物の瓦そばのチェーン店があったりもする。

下関には、道重家が毎年大晦日に買い出しに行っていたという唐戸市場がある。この市場は一般の客にも開放されていて、朝市で買物したり、食堂で新鮮な刺身や海鮮丼、ふぐなどを割と安価で食べられたりする。

完全に余談だが、唐戸市場内にある八十島青果は、昨年の「オールザッツ漫才」Foot Cutバトルで優勝した、東京よしもと所属のお笑いコンビ、2700のメンバー、八十島弘行の実家である。

聖地巡礼などとも呼ばれることのあるフィールドワークの最中、ブラックモンブランを買って食べることは、恒例となっていた。何度食べてもおいしい。一度、すごく暑い日に我慢して宇部新川のTSUTAYAとかマンガ倉庫とかCoCo壱とかがある辺りの駐車場まで歩き、そこのローソンでブラックモンブランを買い、缶に入ったカクテルを飲みながら食べたことがあったが、あれは格別であった。近くには宇部興産のコンビナートのようなものがあるのだが、その日は町が何やら化学的な匂いがした。

「秘密のケンミンSHOW!」に道重さゆみが出演した時、ある九州出身の芸能人がブラックモンブランの魅力を熱く語っていた。その後で道重さゆみは大きくうなずいていて、やはり子供の頃に食べていたのだろうと思った。その後、GREEのブログでこのブラックモンブランのことを書いたりもしていたが、先日の「今夜もうさちゃんピース」では、好きなアイスクリームの1つとして挙げていた。味もさることながら、100円もしないなどと価格についても言及していたところが、さすがは庶民派の道重さゆみであると感心したのだ。

道重さゆみといえばモーニング娘。のメンバーであり、その中で九州出身といえば田中れいなである。ブラックモンブランのことを調べていると、やはり田中れいなもまた、自身のラジオ番組内において、このブラックモンブランの魅力について語っていたことを知った。

実際の音源を聴いてみたところ、かなりノリノリで解説しているが、それだけでそのおいしさを思い出してテンションが上がっているという、大変可愛らしいことになっていた。

ブラックモンブランはねぇ、すごいおいしいんです。 これねぇ、説明しますね。 中は普通のミルクアイス...棒のアイスで、中は普通にミルクなんですよ。 まあ、大きさ的には本当にガリガリ君みたいな感じですよね。 で、その普通のバニラアイスの周りが、クランチとはまた違うんですけど、チョコレー...あ、分かった! あの、ミスタードーナツ分かりますよね、みなさん。 それの、ドーナツのさぁ、周りにさぁ、黄色いツブツブが付いてるドーナツ分かります? ちょっとココナッツとセット的な感じの見た目で、分かります? それ、黄色のやつが付いとって、それが...アイスに付いちゃったみたいな。 めっちゃおいしいんですよ、これ!テンション上がってきた。これ、伝わるかな。 ちょっ...次ね、福岡に帰った時は、もうラーメンとか明太子とかもつ鍋とかじゃなく、ぜひ、ブラックモンブランをお試しあれ、って感じです。

素晴らしい。

久々に書き起こしというものをやってひじょうに懐かしいので、道重さゆみがブラックモンブランについて語った分もやっておく。

あのね、知らないかもしれないんですけど、ブラックモンブランっていうアイスがあるんですよ。 で、それは、なんか、九州限定?...なんですけど、で、山口県は九州地方ではないんですけど、山口県にもあって、で、ブラックモンブランを、小っちゃい頃は、もうしょっちゅう食べて、それ、しかも100円しないんですよ、確か。80円ぐらいで食べれるんですね。 で、なんか、周りにアーモンドみたいな、なんか、クランチみたいなのが付いてて、で、なんか、その棒で食べれるアイスなんですけど、すっごいおいしくて、もうしょっちゅう買って食べてたんですよ。 でも、東京に来て、無くて、で、なんで無いんだろうと思って、別に地方の、あの、アイスって知らなかったんですけど、あの、「ケンミンSHOW」...「秘密のケンミンSHOW」のテレビに出させてもらった時に、九州のアイスってことで紹介されてて、そうだったんだぁと思って、なので、もし九州とか...でも、山口にも売ってるので、なんか、行く機会があったら、絶対ブラックモンブランは食べてほしいです。 モンブランってついてるんですけど、全然モンブランじゃないんですよ。あの、栗とかじゃなくって、普通のチョコレートとバニラのアイスなので、本当においしいので、おすすめです。

ちなみに、ブラックモンブランの現在の小売価格は、税込95円のようである。

また、普通のチョコレートとバニラのアイスクリームであり、栗などは使われていないのに、なにゆえモンブランなのかというと、それはこのブラックモンブランの名称の由来をあたらなければ、なかなか理解できない。

ブラックモンブランを製造販売する竹下製菓のホームページによると、竹下小太郎前会長がアルプス山脈の最高峰であるモンブランを目の前に眺めた時に、「この真っ白い山にチョコレートをかけて食べたらさぞ美味しいだろう」と思い、それをアイスクリームの名称に取り入れたのだという。

このブラックモンブランだが、関東でも買える所があるという話も聞いたことがあるのだが、まだ確かな情報は得られていない。楽天市場の佐賀逸品館などでは、30本入りを通信販売で買えたりもするようだ。同社から発売されているミルクックやトラキチ君といった商品とのセットもある。ちなみに、この竹下製菓からは、道重さゆみがMBSラジオ「ヤングタウン土曜日」にてアシスタントを務める明石家さんまの往年のギャグからインスパイアされたと思われる、「知っとるケ」なる商品も発売されている。

追記)
今、この記事をアップして、それからGREEの道重さゆみのブログを見たらアイスネタで完全にかぶっていて、「やっぱり夏はアイスだね」とか書いてあり、ひじょうに盛り上がったのであった。

全国の竹下製菓ファンの皆さまへお届けします!ついに登場です。一番人気のロングセラーアイス!ブラックモンブランの竹下製菓 ブラックモンブラン30本入 全国の竹下製菓ファンの皆さまへお届けします!ついに登場です。一番人気のロングセラーアイス!ブラックモンブランの竹下製菓 ブラックモンブラン30本入

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2011年2月20日 (日)

そのスピードで。

iPhoneから確認したところ、NMEの最新号がやっとこさZinioに届いたようである。しかし、ROLLING STONEのようにiPhoneアプリには対応していないため、帰宅後にパソコンで読む以外に無い。iPadには対応しているのだが、あっちは購入予定が無いのだ。

それにしても今週は遅かった。とはいえ、以前ならば渋谷のWAVEとか新宿のヴァージン・メガストアとかアルタの中のCISCOに入荷する最速が土曜日で、わざわざ楽しみにして行ったのに入荷していなかったりするとこの世の終わりかのように落ち込んでいたのだから、それに比べると随分と便利になったものだ。欲望は果てしないというか、人間は自由であるべく呪われているというか、そのように感じた次第である。

一方、ROLLING STONEの方はというと、だいたい隔週火曜日ぐらいに届いていたのだが、最近はその前の週の土曜日に届いている。しかもiPhoneで読めるのだからひじょうに好ましい。前号のエルトン・ジョンのインタビューもひじょうに面白かったが、今週のジャスティン・ビーヴァーのもとても楽しめた。個人的にあまり興味がない人についての記事でも面白いのだから、かなり素敵だ。R.E.M.の新作だが、これはどうやら買うことになりそうである。近頃、新しいバンドやアーティストを一生懸命チェックするよりも、昔から聴いてきた人達の新作とかに感じ入ることが多くなってきたような気がする。まあ、普通はこんなものなんだろう。

ところで、仕事場の有線かかってる板野友美の「Dear J.」を今さらながらちゃんと聴いたのだが、これはかなり好きである。洋楽でもインディー・ギター・ポップなどを愛好する一方でレディー・ガガとかケイティ・ペリーのシングルなんかも秘かに好きな私なので、これは素直にカッコよくてノリノリで良いと思うのである。

あと、森進一の「冬のリヴィエラ」を最近iTunesでダウンロード購入し、ひじょうに気に入っている。これは私が高校生だった頃に出たシングルだが、大瀧詠一作品だからといって何でも得意気に買っていた友人のことを、どこか苦々しく感じていた。しかし、これは普通に良いではないか。紛れもなくナイアガラワールドである。

あの年、親戚が旭川に集まった時、札幌の叔父さんもこの曲を口ずさんでいたのだった。

大阪からまたメッセージが届きはじめているのだが、もう甘やかすのと突き放すののさじ加減がよく分からなくなっている。悪気は一切無いし、むしろ愛しくて仕方がないぐらいなのだが、思っていること考えていることをちゃんと伝えるというのは、とても難しいことだ。

でも、やはりちゃんと正しい道へと導いてあげなくてはいけないと、そんな風には思っているのだ。ただの天使性に殺られたいだけで、その優先順位が下がったとかそういう次元で捉えられても仕方がないとは思わないでもないのだが。

とにかく男の子のように痩せぎすな体躯で、最近の女子のように焼肉などがっつきそうにないようなところを含め、パーツに身も心も侵食されがちなことは間違いないとして、不承不承の受け入れ方を覚えることも、大人になる上では悪くないと思うのだ。

年月が教えたものが憂いの纏い方だけだったというのでは冗談にすらならないし、そんな風に育てた覚えは無いのです。

私信かと問われれば、必ずしも否定はしない。

エルヴィス・コステロ流に言うと、「My Aim is True」ってとこか。相も変わらずイタいことこの上ない。でも、そこが良いんじゃん。とかなんとかを繰り返す昼下がりである。

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